庶民は周章狼狽するが、英雄は必ず現れる
杉原志啓氏 西部氏が庶民を信用していない、彼らは周章狼狽するだろうと言った。
私が言いたかったのは周章狼狽した時に英雄が現れるということで、その現状認識はここにいる皆さんと同じだと思う。
政治学の授業の教室で20人くらいの学生に、三島を知っているかと聞いたら、知っていたのは一人だけだった。その学生に何を読んだと聞いたら『金閣寺』を読んだという。面白かったかと聞くと、よく分からなかったという。私は『英霊の声』を読むことをその学生にすすめた。
ところがついでに村上春樹を知っているかと聞いたら全員知っていた。なんで知っているかと聞いたらゼミで読んだ、先生に読まされましたと。
これは本末転倒だろうと思った。私は、三島は分からなかったが偉かったと当時から思っていた。戦後を黄金万能主義、拝金主義だと『英霊の声』で言っている。「などてすめろぎは人となりたまひし」。戦後大義が失われ崩壊した最大の原因は、天皇が神でなくなったから、人間宣言したからだと三島は言っている。
天皇が神の座を降りて、日本に絶対的機軸が失われてしまった。絶対的でない人間は、人が死んだときに意味を与えることはできないだろうと三島は言っている。日本は、人間中心的、平和主義的、生命尊重主義になってしまった。自分の命を最高の価値としてしまい、自分を律する或る崇高なもの失い、お金がその代わりになってしまったと言っている。
先に吉田松陰の話をしたが、やはり三島の「文化概念としての天皇」論を、悪いとは言わないが、政治思想を語っているというよりは文学者の観点から天皇を論じていると思う。それを悪いとは言っていない。私はもっと実践的に、憲法一条で天皇を国家元首として位置付けることを願っている。
憲法改正についての法理論上の議論は尽きている。もう政治的決断の時だ。しかしそれが出来ないでいる。それはまだどん詰まりに行っていないからだ。私は日本国民の常識、庶民の常識を信じている。究極的なところで英雄が出てくると思っている。
西村幸祐氏 三島における天皇というのは難しいテーマで、ずっと考えている。ひとつ言えるのは、絶対者が必要だということだ。
それが幻の南朝の天皇なのか、ザイン(存在)としての天皇なのか、ゾルレン(当為)としての天皇か。ゾルレンとしての天皇だけが天皇なら、ザインとしの天皇は何処に行ってしまうのかという議論になり、それが解釈を難しくしている。
『文化防衛論』は後半で文章がいささか混乱し、その提起している問題は相当難解になっているが 非常に重要なことを提議している。しかし今明解に説明できない。
現実の皇室の問題で言えば、私は楽観主義と悲観主義の中間くらいにいる。40年前の東大全共闘との討論で三島は、これだけの言論の自由の中で皇室が存在していられるという、それゆえの天皇の意義を言っていた。
それから40年経った即位20周年の日に、NHKが不可解、僭越、無意味な世論調査を発表していたが、平成の転落堕落の御世を経てきて、それでも象徴天皇制を国民の九割近くが受け入れている。我々が考えている以上に天皇という存在は、それを意識していない人にとって本当は身近にいるという見方ができる。
その一方で自分は全く関係ないよと思っている現実がある。杉原氏が言っていた、20人の学生の一人しか三島を知らない状況がある。西部氏は日本人に絶望し、杉原氏は信じたいと言っていた。私はちょうどその半分くらいだ。
ひとつ言いたいことは、おそらく日本は、三島が想像していた範疇をはるかに超えた事態になっている。外国人参政権法案が平然と政権与党から出てくる状況を三島は考えてもいなかっただろう。
「国民」という言葉がいつの間にか無くされている。三好達治の「二つとない祖国」という言葉で始まる詩があるが、外国人参政権は「二つとない祖国」を根底から打ち砕くものだ。
政治状況的に言えば、冷戦に負けた左翼勢力が、日本の中では冷戦に勝った。ベルリンの壁が無くなった後、西ドイツが東ドイツを統一したが、日本では見えない「東京の壁」が崩れた後、東日本が西日本を統一した。それが今回の衆議院選挙だったという認識を持つ。
昭和が終わり、どんどん失われた日本人の歴史意識、歴史を知っていた人々に代わるものが無くなった。この状況は深刻に受け止めざるを得ない。
皇室の問題は、絶対者としてのイデアが日本人の心の核の中に存在し続けるものであるべきだというのが私の考えだ。
天皇的なもの、とは?
西部邁氏 『英霊の声』を読むと「などてすめろぎは人となりたまひし」の前にこう書いてある。戦後のひどい大衆状況の中で、なぜ天皇は人となったのだとある。そういう文脈の中にある。単に天皇だけを取り出して人間宣言を云々するのではなく、戦後の状況の中で語られている。
西村氏の言うとおり、我々国民の精神の内部に「天皇的なもの」がなければならない。その意味するところは、日本人の歴史意識の中に独特の価値意識、規範感覚があり、その価値の上にはさらに上の価値がある。さらなる上の価値があるとするなら、日本人の歴史意識にその価値を真剣に受け止める常識があれば、最高位の価値としての絶対の次元、超越の次元、聖なる次元と言わざるを得ないものを、なかば無自覚にしても感じとらざるを得ない。そういう大衆ならざるまっとうな国民であるなら、天皇に象徴される神聖性、絶対性は、自分の外に外在するものではなく精神の内部に伏在するものだ。それをぜんぶ投げ捨てたものを大衆と呼ぶなら、そこに天皇が神聖性をかなぐり捨てて人となることの空恐ろしさを三島は語ったと思う。それが小生の解釈だ。
『太陽と鉄』の死の哲学は、そこにある三島の気持ちはよく分かるが、失敗作に近いと思う。『文化防衛論』においても納得し難いことがある。三島は文化とは何かを論じて、それは国民精神であるという。作品と言う実体ではない。お茶だ、お花だ、能だ、歌舞伎だという伝統工芸、伝統芸能が文化ではない。そこに含まれている国民の生き方、精神が文化だと言っている。しかし論を追ってゆくとしだいに実体ではなく形式だと言っている。天皇論をめぐりながら納得し難い解釈に三島自身が引き摺りこまれている。
実体に裏付けられない形式は空虚で、形式を持たない実体は虚しい。形式と実体の統一融合を考えていくと言葉の問題に逢着する。言葉はフォームを持ちながら、発音、文章、ボディランゲージ含めて実体を伴う。
問題をずっと追っていくと、三島が言いたかったのは、文化の崩壊は、天皇という制度の崩壊だけではなく、その崩壊のもっとも強く意味するところは、日本人の歴史をぎりぎり成り立たせているナショナル・ランゲージである「国語」が大衆の中でかくも乱れ染めにしになったことだろう。小生はそう感じる。
三島をめぐってそういう問題も含んでおり、我々は歴史、文化、伝統について、その意味するところをもっと探るべきではないか。
富岡幸一郎氏 三島邸に、ある若い自衛官が行ったら、家はロココ調、洋服を着て、酒は洋酒だった。酔った自衛官が、「三島先生、何も日本の伝統的なところがないですね」と言うと、三島は、「俺は深夜、日本語を書いている。それが俺のアイデンティティだ」と答えたという。
今日の議論はすべて『檄文』から発している。松本清張は作家の文章と思えないと言ったが、文武両道の三島の文学者の姿がこの『檄文』の中にあると思う。今日は39周年と言うことで三島思想について議論をした。
以上でシンポジウムは終了し、司会の菅谷誠一郎が次のように閉会を宣しました。
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