没後三十九年「憂国忌」の御報告


没後三十九年「憂国忌」が
平成二十一年十一月二十五日、星陵会館で開催されました。

没後39年「憂国忌」

 三島由紀夫氏追悼会「憂国忌」は、三十九周年のご命日に開催されました。
 会場の九段会館は開場前の午後五時四十分頃には席が満杯となり、補助椅子を足しても座りきれず、立ち見の方もでました。

 今回シンポジウムは「現代に蘇る三島思想」のタイトルのもと、オピニオン誌『表現者』に関わる四氏が熱く語りました。
 まず司会の菅谷幸一郎(三島由紀夫研究会事務局)が開会を宣し、松本徹・三島由紀夫文学館館長の開会の辞で幕を開けました。

松本徹氏の開会挨拶「豪州の寒村でも三島演劇が上演された」

 11月21日山中湖畔で行われた三島由紀夫文学館の「開館10周年記念フォーラム」は、申し込みが殺到し受付を中止するほどの盛況だった。
 そこでドナルド・キーン氏は、オーストラリアの田舎の寒村で三島劇が上演されたことを語り、三島との公私にわたる接触を語った横尾忠則氏は、三島の姿を数多く描き、仕事の柱のひとつとしてそれらを世界各地で展観し、文学を超えて三島を広めている。そうやって海外では、没後39年の間に「三島由紀夫」の存在が隅々まで浸透し、拡がりを見せている。

 それにも拘らず日本国内においては、三島に対して、依然として一種の偏見としか思われない狭量な見方がある。しかしそれが無くなって、日本の古典をトータルに踏まえて、大きな仕事をした三島の本当の価値や存在が認められることは、日本の文学の本当の値打ちがより明らかになっていくことであると思う。
 ただ現時点では、言葉が軽く、そして奇妙に歪められて横行していると感じており、はたしてこのままで三島の存在が確実に大きくなるのか、そうならないのではないかという絶望を日々感じている。そういう問題を本日のシンポジウムが取り上げ、掘り下げてくれることを期待している。

 開会の辞の後、記念シンポジウムの進行役は富岡幸一郎氏に委ねられました。

シンポジウム記録(概略)


シンポジウム
シンポジウム

富岡幸一郎氏 自分も含め、隔月刊のオピニオン誌『表現者』に関わっている西部邁氏、西村幸祐氏、杉原志啓氏で「三島思想」について語ろうと思う。
 三島は自決直前に東武百貨店で三島由紀夫展をやり、そこで自身の行いを「書物の河」、「舞台の河」、「肉体の河」、「行動の河」の4つとし、それらが自決に至る流れを形成した。
 それに従い、三年前は村松英子氏による『薔薇と海賊』の予告上演を、一昨年は井尻千男氏が「武士道のかなしみ」を、昨年は西尾幹二氏が自著『三島由紀夫の死と私』をもとに三島文学について語った。
今年は三島思想について語り合いたい。自分は、三島が自決した当時、中学一年生だったが、あの三島の自決が無ければ自分はここにいない。

西部邁氏 小生は、19、20、21歳と左翼過激派で、22歳で左翼は自分に合わないと思い、その後の二十代は無頼の生活をし、31歳で大学に職を得た。その時にアルバイトをしていた日経新聞の研究所で三島の自決したことを知った。その瞬間、背筋にスッーと寒いものが走った感覚を今でもしっかり憶えている。それはあたかも神主が魂を遷すときに発する、「オー」という警ひつのような感じだった。
 それから49歳になるまでの18年間、大学で認識が欠伸をするような社会科学系の仕事をしていたが、その欠伸を押し殺せなくなった。そのときに五、六十枚の三島論を書いた。三島批判ではなく三島のことが分かりたくて『文化防衛論』や『太陽と鉄』について書いた。それ以来折に触れて三島について考えてきた。結論的には三島は文の上では成功していない。けっして批判ではなく、文の世界をぎりぎりまで追っていないように感じている。
自分の死の哲学を課題として、自分なりにこれを追い、考えていて、このことが今70歳になって、31歳、49歳の時よりもかなり分かってきたと思う。

受験勉強を放棄して浪人生活

西村幸祐氏 ちょうど39年前の今日、私は18歳で大学浪人中だった。代々木ゼミナールの漢文の授業の教師が教室に入るなり、いきなり「三島先生が割腹なさいました」と言って、騒然となった。三島作品は中学生の時から読み、三島の書いた思想書、評論だけが信じられる高校時代を送っていた。
 自決の後一切の受験勉強を放棄して二浪し、三島とニーチェを読み耽っていた。39年経ってもまだ三島は死んでいなくて、つくづく「現在の三島」が出てきても不思議ではない状況だと思う。
 「歴史」はその瞬間、同時代、同時期に体験を共有した者同士でなければ絶対に分からない。「歴史の事実」は伝わらないとつくづく思う。TBSラジオのアナウンサーは、自決した日の夕方のニュースで『檄文』を全文読みあげていた。
 それを聴いて、私は涙が出た。マスコミに良識があったそんな時代の空気は絶対に伝わらない。私は、翌日小雨の中を、頭の中で住所を暗記していた南馬込4−32−8の三島邸に駆けつけていた。
三島が提示したものは、政治と文学、生と死というような二元論の、近代的な思惟により規定された我々の考え方をすべてぶち壊すものだ。文学的、政治的な次元で論じられるものではない。

三島はビートルズ論も書いた!

杉原志啓氏 私の本の半数近くは音楽関係で、ポップ、ロック方面の評論を書きまくっていた。CDのライナーノーツも書いている。私がはじめて読んだ三島の文章はビートルズについての音楽評論だった。
 1966年ビートルズが来日し、その時に三島は武道館の公演に行っている。私は当時サブカルチャー系の雑誌ばかり読んでいて、たまたま床屋で読んだ『女性自身』に三島はこんなふうに書いている。
「自分は武道館でビートルズのライブステージを一切観ておらず、ひたすら周囲の観衆ばかりを見ていた。少女は産室で産声をたてるように泣きじゃくって腰が立たないでいる。なぜ興奮しているのか不気味な感動があった。自分は感銘も興奮もなく、痛切な不気味さに驚かされた。こんなサブカルの音楽に泣くほどのことが一つもないことを自分はよく知っている。虚像というものは恐ろしい。」

 三島はビートルズのことを「虚像」だと言っているが、当時三島は「平凡パンチ」や「週刊プレイボーイ」などのサブカルの雑誌によく出ていた。子供心に三島が選ばれた人、エリートということは分かっていたが、子供の直感で、それにそぐわないパロディをやっている、嫌味なコメディアンみたいなことをやっていると感じていた。

 私が山形から東京に出てきていた19歳の浪人時代に三島が死んだ。三島はパロディのまま死んでしまったのだとビックリした。感動感激したのではなく、非常に驚いた。ショックがあった。
 村上春樹は『羊をめぐる冒険』の第一章「1970/11/25 水曜日の午後のピクニック」で、三島の死について「僕らにとってどうでもいいこと」とだけ触れている。私はどうでもいいとは思わず、ショックがあった。
 あとで三島の代表作を読んだが、ハダハダなものを感じ、自分の感性に合わなかった。しかし自分なりの手掛かりをつかんだ。三島にビートルズのことは分からないが、それでもいいのだ。ビートルズはくだらない、虚像だという大人は、21世紀の今日いないからだ。三島は肌には合わないが敬愛している。

ムラカミハルキの『1Q84』はどうしようもないサブカル小説

富岡幸一郎氏 村上春樹の『1Q84』を読んだがどうしようもない小説で、彼の作品はサブカル、エンターテインメントだから、三島と比較しても意味がない。
 さて、三島は『檄文』で死を賭して「あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう」と自衛隊に決起を促したが、39年経ってもまったくその状況は変わらず、シンポジウムのタイトル「現代に蘇る三島思想」にある通り、三島が現代に蘇れば直ちに割腹するだろう。
 松本氏の発言通り、ひどい日本の状況、現実が出来している。三島を回顧するだけでなく、この現実認識から出発しなければならない。

西部邁氏 三島はサブカル的なものに興味を示していたが、それを杉原氏のようにサブカルと括ってしまうと三島像が分裂してしまう。
 強いて統一することはないが、三島は状況(シチュエーション)を、大義でもいいし、あるいは美についてでもいいが、それらを抽象的にしか語らないでいると、或る種の人工性に認識が欠伸をしてしまい、虚無が生まれてしまうと感じた。そんな否応のない虚無がその水位を増し、そこから一歩でも二歩でも逃れようとすると、現実、つまり状況の中に身を置かざるを得ない。
 三島の不幸は、その状況がビートルズに代表されるような大衆社会状況で、それがとめどなく広がっていたことだ。
 それはまさに我々が置かれている状況だ。それと確執を演じようとすると、その中にわが身を投じざるを得ない。わが身を投じずに大学の研究室にいたり、書斎で文学を書いていることに肯じえず、状況との接触の果ての果てに、政治という状況が三島の前に拓けていた。
 三島のサブカルとの接触や演技も−人間のやることは皆演技という意味において−政治に対する関与である。
 楯の会や、佐藤首相や中曽根防衛長官から病気だと言われた三島の振る舞いだが、三島が状況との確執の中で自分に与えられた条件、たとえば楯の会のような集団の言葉のやり取りの中で次々に生じる、半分は不確実で半分は美意識、正義感から大略予想できる確実なもの、その両者のせめぎ合いの中で大衆社会状況を引き受け、その一環として政治をめぐる大衆化状況があったと考えたい。

 『檄文』を読んで、富岡氏の言うとおり、自衛隊への三島の気持ちはよく分かる。自衛隊は憲法違反の存在であるのに、とうとう出動のチャンスのないまま、自衛隊は憲法体制の中に暗黙のうちに接収されて、逆に憲法を擁護する軍隊になってしまっているじゃないか。その背後にアメリカと言う巨大な大衆文明が控えていて、自衛隊はその走狗となり果てている。それで軍人足り得るのか。
 しかし次のように考えることもできるのではないか。憲法はどうでもいい。自衛隊は憲法と別次元で成立している。憲法を認めるなら自衛隊は認められない。自衛隊を認めるなら憲法は認められないという二者択一を強いられている。小生はそう考える。
 硝煙消えやらぬ戦後の混乱期にアメリカ人が起草し、日本人が拙速で訳し、第90回帝国議会で認められただけの憲法の条文に、自分の存在や頭を合わせて行動すること、憲法に合うように自分、家族、企業がその存在を変えるということ、つまりあんな憲法に国家の在り方、人格のあり方まで、まともな歴史感覚を持った国民が左右されるというのは近代主義的誤謬である。あんな成文憲法は二の次三の次で、我々の歴史感覚のもたらす常識なり良識で、自分たちの国防や軍隊をどう迎えいれ、どうつくるかを考えるべきだ。

 法律の前に、常識、良識でどうするかを考えるのが決定的に大事だ。その常識をもたらすのは日本の歴史である。そっちの方が大事だ。たかだか憲法という法律の改正より常識の方が大事だ。
 『檄文』の気持ちは重々分かるが、論理構成はたいしたことはない。
 そこにある思想の論理はたいしたことはない。これは三島批判ではなく、今の日本人が日本の歴史と関係のない憲法ではなく、自分たちの頭の根源根本に、日本語を通じて、自覚するとしないに拘わらず、自分たちの歴史があるなら、そっちの方が日本人の精神意識として決定的に大事だということだ。それを今の日本人は分かっていない。三島が憂えたそのような状況はまったく変わっておらず、悪化するばかりだ。

 もうひとつ気になっているのは、三島の「文武両道」についてである。得てして陥りがちな間違いだが、陽明学は、認識と行動・実践は、知行として合一しなければいけないという。文は文としてあり、武はそれから分離されたものとしてあるとし、それら異なったものを両方引き受けるという。こういうふうに「文武両道」を受け容れる人が案外いる。
 難解な『太陽と鉄』を読んだが、そこでも精神と体、それら分離したものをどうひっつけるかの話になっている。


シンポ。富岡幸一郎氏、西部邁氏
シンポ。富岡幸一郎氏、西部邁氏

文武両道の本義とは

(西部続き) 「文武両道」の文は、実は可能性からいえば常に武を秘めている。刀や鉄砲を持てば武が成り立つのではない。武道という言葉がある通り、人間の道だから倫理がある。倫は物事の筋道で、武が成り立つためには精神、文化、儀式がなければならない。文と武、言語と身体というものは、顕れは違うが根源に置いて通底していると思われる。しかし三島の文章を読んだ限りにおいては、文と武、認識と実践は分離している。
 実はこれは日本の知識人の問題でもある 政治学者であろうが、文学者であろうが、自身に押し寄せる大衆社会の状況の中で文を書いていると自覚すれば、そこから離れて真理や美を語れないはずだ。三島を踏まえてなお先に進もうとすれば、知・行、文・武は通底していて、それらの通底ぶりを自覚できない文はつまらないものとなり、軽はずみなものとなり、人を説得できないものになる。

 三島が腹を切って死んだことが、政治レベルで論じられることが多い。三島の全作品を読み返し、全生涯を眺め返すと、根本にはもっともっと広く人間性一般に関わる深いものが含まれている。
 人間は生きることに執着すると、生き延びるために、例えば小生が富岡氏を裏切る、杉原氏をたぶらかす、そうやって大切なもの、大事なものを脇へ追ってしまう。生を第一義の価値とすると、虚無の中に身を投じてしまうことになる。ぎりぎりの状況で生きることを選んだ人間は、国家について言うと大義を疎んじてしまう。個人の場合は、生に執着すると職場に迎合したりして、価値規範を誤魔化すことになる。それが無いとしてしまうニヒルになるくらいなら、自分の生を無いとした方がいい。

 虚無主義から脱する最大の防波堤は自分で死を決行することだ。モーリス・パンゲは『自死の日本史』に書いている。世界広しと言えど、世界の歴史長しと言えど、虚無から自分を守るために自分で死んでみせるのは唯一日本だけである。ヨーロッパは虚無から逃れるために宗教、藝術、哲学などの形而上学に頼った。しかしひとり日本人だけは学問に逃れることなく、形而下のレベルで自分の生命を絶つことによってしか虚無を排除できないのだと、武士道の時代にそれを文化として確立した。
 三島を論じるとき 政治論、軍事論、防衛論、憲法論に封じ込めず、人間性一般のこととして、おそろしく正しいことを云わんとしていたと捉えるべきだ。そうしないと三島の行動は滑稽至極にしか見えない。あのぎりぎりの意味合いが見えてこない。杉原氏の反論を待ちたい。

杉原志啓氏 吉田松陰は『講孟劄記』の中で、7世紀の壬申の乱で弘文天皇と天武天皇が争奪した三種の神器と天皇のレジティマシー(正統性)について、水戸学前期の『大日本史』が論じていることを取り上げている。松陰はそこで三種の神器を奪い返せばいい、認識より実践的な行動が大事だと述べている。三島が亡くなった時にビックリした私は、そんな吉田松陰を思い浮かべた。
 私は西部氏のようにペシミスティックな感覚は希薄で、日本人の一般大衆庶民を信頼している。

 私が研究している徳富蘇峰は『近世日本国民史』で、元禄時代の忠臣蔵、赤穂浪士という事件について書いている。元禄時代がどういう時代だったかというと、享楽と歓楽、第一に黄金、第二に黄金、三四がなくて第五に黄金の黄金万能、拝金万能、戦争無き泰平楽の出鱈目な時代だと書いている。そんな時代に、突如として腹を切らなければならない人間が47人も出た驚くべき事件が出来した。「東京丸の内に虎が飛び出すより驚くべき事件」だと蘇峰は書いている。
 私は三島のことを「張り子の虎」くらいに思っていた。トリックスターではないかと子供心に斜に構えて見ていた。その死に接して、西部氏は武ということを文と合わせて説明していたが、日本国民に潜在している尚武の気性は、いよいよという時になると必ず噴出すると信じている。山路愛山、福本日南もそう信じていた。

 三島が身を捨てて、昭和元禄の時代に警鐘を鳴らしてくれた。たしかに表面上はどんどん悪くなっていると思っている。北朝鮮の拉致問題、憲法改正問題、有事法制の問題、何一つ手をつけられていない。その背景には日本人の国家意識の欠如がある。北朝鮮の不審船問題では内閣がもたもたして、自衛隊法82条に基づく海上警備行動がなかなか発動されなかった。私の恩師坂本多加雄先生は、あの時内閣がもたもたしたのは国民の中に構えが出来ていないからだが、日本国民は健全であるから必ず目覚めると言っていた。
 私は、日本はどんどんダメになる、破滅が来る、溶解するとは思っていない。日本の近代を中心に歴史を研究しているうちに、そんなに捨てたものではない、また次の三島のような人が出てくると思うようになった。危機の時、日本は必ず英雄を生みだす。徳富蘇峰も山路愛山もそう言っている。そちらの方に私は賭けたい。

富岡幸一郎氏 西部氏から「文武両道」の話を聞いていて、なるほどと思った。
 認識と実践は『金閣寺』のテーマでもあるし、文学者としての三島が、この二元論の三島文学を生みだしていて、最後にそれを乗り越えようとしたのだろう。論理的な破綻をしているとは思うが、人間の行動論として両者は通底している。
 パンゲの他にもうひとりフランス人が特攻隊について書いている。ベルナール・ミローが、「特攻隊は千年の時を貫いて人間の高貴さを示している」と1970年代に『KAMIKAZE(神風)』に書いている。特攻隊と三島の死は日本人の原点を知らせてくれている。

 たかが成文憲法だが、それを60年も押し戴いている日本は如何なものかと思う。『檄文』にある「あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう」の「あと二年」の意味は何なのだろうと考えている。
 あれほど対立していた米中が1972年に手を結んだ あの瞬間に憲法改正と自衛隊が国軍になるチャンスを失った。スケールは違うが今同じ事態が出来している。今米中が日本をスルーして経済同盟を結ぼうとしている。日本の外交は機能していない。


シンポ。西村幸祐氏、杉原志啓氏
シンポ。西村幸祐氏、杉原志啓氏

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