没後三十七年追悼会「憂国忌」の御報告

ことしも「憂国忌」に1000名が参加し、三島氏の憂国思想をさぐった

入り口に両烈士。

 平成十九年十一月二十五日、池袋の豊島公会堂。
 開演までに一時間のあいだには音楽、最後の演説などのBGMが流れた。会は政治学者の藤井厳喜氏が総合司会を担当した。

 トップバッターには「開会の辞」として、文藝評論家の富岡幸一郎氏が登壇した。

 三島由紀夫、森田必勝両氏の霊に黙祷を捧げた後、第一部のシンポジウム「あれは楯の会事件ではなかったのか」に入った。パネリストは堤堯氏(元文藝春秋編集長)、中村彰彦氏(直木賞作家)。司会は花田紀凱氏(WILL編集長)が務めた。
 途中、司会者の突然の指名で、評論家の宮崎正弘氏も登壇し、年譜を振り返りながら、三島氏が楯の会の構想を抱いて、『論争ジャーナル』を中心に学生の入隊希望者の人選をすすめ、第一回入隊の20人になぜ森田が参加し、その後、森田主導がなされていく経過かを、克明に追求した。


第一部のシンポジウム(左から花田、宮崎、堤、中村の各氏)
第一部のシンポジウム(左から花田、宮崎、堤、中村の各氏)

 とくに堤氏は文春入社後すぐに三島由紀夫担当となってオリンピックの取材に同行したときから交友がはじまり三島氏から「君も楯の会にはいってくれ」と誘われたりした。

 三島氏が「俺を殺す一人の男がいる」というので、森田必勝をアルバイト先にまで訪ね、車座になった飲んだはなし。中村氏は森田の伝記評論『烈士と呼ばれる男』を書いた経緯を、取材者の立場から仔細に語った。

 また現場にいた証言として、そのおりおりに遭遇してきた宮崎氏は、その一瞬の印象や雰囲気を、時系列の再現した。

 なお、発言者加筆による正式な記録は『WILL』2008年2月号をご参照ください。


第一部シンポジウム概略記録

檄文朗読の若者達
檄文朗読の若者達

 ひきつづき「憂国忌」の第二部は三島氏が市ヶ谷台での最後の演説のなまなましい録音が流されたあと、檄文朗読(日本保守主義研究会)を漆原亮太、渡辺慧裕、福本哲の三人の学生が分担、記念講演に移った。

 井尻千男氏の講演は「武士道の悲しみ 最後の特攻としての三島由紀夫」と題して、一時間以上の熱弁を振るった。

 最後に「閉会の辞」を西尾幹二氏(評論家)がつとめた。
 西尾氏の閉会の辞は「シンポジウムで、これまでまったく知らなかった三島―森田の関係と事件への伏線が時系列に論理的に語られ、こうした視点で考えたことがなかったので、全体の三島像を把握する上で参考になった。また井尻さんの講演は江藤淳、司馬遼太郎というふたつの「戦後」と三島の「伝統」との距離を比較されながらの熱弁で、とても感動的だった」と述べた。
 散会後、希望者には会場に飾られた生花を分解して配布された。


井尻千男氏の講演
井尻千男氏の講演

 なお、講演要旨の正式な記録は『月刊日本』、2008年正月号を参照ください。

井尻千男氏の講演概略記録

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