三島由紀夫の思想と行動の意義は、日本人の心に静かに浸透し、理解されつつある。特に、戦後育ちの青年層への影響の強さには驚くべきものがある。
「憂国」とは何か? 愛なきところには憂いはない。自己を、家族肉親を、国を、世界を、人類を愛し、その危機を予感する時、憂いは生れる。
我々は人類を愛し、世界の危機を憂うる。ただし、この危機に対処するためには、諸国民はひとまず国境の内側で立ち止まらなければならぬ。世界と人類は今日ではまだ具体としては存在せず、未来に属する概念であり理想である。我々はおのれの生れ育った国の危機を解決して初めて世界と人類の未来に通じる道を開くことができる。
日本人にとっては、日本という国は生きた伝統と道統を持つ生きた統一体である。この国が亡びたら、日本人の世界と人類への道は閉される、敗戦以来二十六年、日本の伝統・道徳・教育・思想・風俗はひたすら亡びへの一路をたどりつつある。この頽落を見ぬいて、日本を愛するが故に日本を憂うる三島由紀夫の「憂国の思想と行動」が生れた。
憂国の精神は、自己愛と肉親愛を超える。三島由紀夫はそれを行動で示した。この捨身と献身は日本の誇るべき道統である。彼は生前、「自分の行動は二、三百年後でなければ理解されないだろう」と書いたが、理解はすでに始まっている。理解者は日本人だけにかぎらず、外国人の中にもいる。それが世界と人類の未来への道を開く行動であるからだ。
まず少数の理解者が彼の精神を想起し拡大する「憂国忌」に集まろう、「二、三百年後」という嘆きを、五十年、十年後にちぢめて、三島由紀夫の魂を微笑せしめるために。
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