三島由紀夫文学紀行
その1 ヴァチカン
なぜ三島由紀夫はアンティノウス像をヴァチカンに二回も見に行ったのか?

 三島由紀夫が最初の海外旅行に出航したのは1952年のクリスマス、横浜港からで,はじめは船でハワイへ行った。三島は例によって細かな旅日記を綴り、その心境を鮮明に書いた。既に文壇の寵児として名声を確立してゆく過程にはあるが、まだこの時点では「仮面の告白」がベストセラーになっていた程度、まして海外では全く無名である。
 従って米国についての感傷的な記述もないかわりに占領政策を攻撃する激甚な文章も「私の遍歴時代」と「アポロの杯」には見あたらない。
 三島が占領政策に直接的な容喙をするのは昭和40年代であり、昭和20年代の中から寓話的批判を選ぶとすれば「鍵のかかる部屋」が、主権を失っていた時代の日本のデカダンスを描いた作品である。その占領政策に抵抗できない日本人の精神の退廃をインモラルな役人とセックスに奔放な人妻と、その子供を通して背徳的な世相を描いている。
 ともかく三島は最初の海外雄飛でハワイへ寄港し、半年のもわたる長い旅の第一歩を印(しる)した。それから南米へ足を延ばし、やがてパリへ、最後は「憧れに憧れた」ギリシャの聖地・デルフィへ。
 そこでめくるめく感動を覚えた三島は「アポロの杯」にその思いの丈を書いた。アテネでもディオニソス劇場跡に何回か赴き、ゼウスしんでんでは日がな寝そべって空を見上げ、その幸福感に浸った、とある(詳しくは拙著「三島由紀夫はいかにして日本回帰したのか」(清流出版刊)。
 最後にローマへ戻って、ヴァチカンへ二度行っている。帰りの飛行機がでる直前にもう一度、三島はヴァチカンへもどって、ある英雄の像を見上げた。ここが問題である。

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ヴァチカン全景

 三島は何故、二回もヴァチカンに行ったのか。何をそこに見ようとしたのか、が長い間誤解されてきた。
 「太陽!太陽!完全な太陽!」と三島は「アポロの杯」で叫んだ。
 太陽へのあこがれは、この船による長旅で、ハワイに近づくにつれ日光が強烈になる。「私は暗い洞穴から出て、はじめて太陽を発見した思ひだつた」と彼は「私の遍歴時代」にもしるすのである。そしてデッキで日光浴をしながら、「肉体的な存在感」が稀薄なことを改めておもい至る。
 「存在感」への飢渇感を三島は実感するのである。だからこそ、あの強烈な肉体美を誇るギリシアの彫刻の美に吸い寄せられ、ギリシアは「眷恋の地」と表現されるに至る。
 三島にとっての「戦後民主主義」は、こうして「ギリシア」に象徴される、彼の独自の世界へと逃亡しているのである。つまり「敗戦」と日本精神の希薄化状況、アメリカ化への絶望が「暗い洞穴」であり、「初めて太陽」を、世界人類史の民主主義発祥の地を見て、思いついたのである。

 「私は希臘にゐる。私は無上の幸福に酔つてゐる」
 「絶妙の青空。絶妙の風。夥しい光」
 「私はかういふ光りと風を心から愛する」

 対して日本の
 「知識人の顔といふのは何と醜いのだらう」

 三島はこうしてギリシャに新しい人生の理想を見出していく。
 つまりギリシアの美に憧れた三島は自らの筋肉も懸命に鍛え上げれば、あのような美しい体を形成出来るとしてボデイビルにいそしむのだが、単純にそう考えてしまうと時間的スパンの計算が合わなくなってしまう。
 三島にボディビルを家庭教師として教えた玉利さとし氏によれば「潮騒」で成功し、次の「金閣寺」へと移る期間に本格的な練習を始めたそうで、そうなると昭和29年から30年にかけてのことになり、すると帰国後しばらくは他のスポーツをしていていた。それはボディビルを始めるには当時の三島の肉体はとても人前にさらせるものではなく、兵役検査不合格が示すように腺病質で虚弱な体質であった。

 三島はギリシアへ行って、人生観を改め、まずは自らの肉体を「ギリシア化」する決意をしたのである。その決意、その強い動機の一つとなったのがヴァチカンのアンテイノウス像だった。
 そのヴァチカンである。
 筆者もいま、そのヴァチカンにいる。
 三島はアンティノウス像を以下のように描いた。「キリスト教の洗礼を受けなかったギリシアの最後の花」つづけて三島は書いた。「さやうなら、アンティノウスよ、我らの姿は精神にむしばまれ、既に年老いて、君の絶美の姿に似るべくもないが、ねがわくはアンティノウスよ、わが作品の形態をして、些かでも君の形態の無上の詩に近づかしめんことを」(「アポロの杯」)。
 アンティノウス像は凛として引き締まり、無駄のない、戦士の筋肉、勇者の面魂をもって悠久の歴史から現代人へ「命より大事なものがある」と呼びかけているようだ。
アンティノウス像
 三島がそれから18年の後、「檄」のなかで「命より大切なものがある」と激甚きわまる文章を綴ることになろうとは、まさかこの時点での彼自身想像していたわけではないであろうけれど…… 
 その像を見上げた。凛々しくも雄々しく、猛々しくも優しいアンティノウス。長く見入っていると古代ローマへタイムタプセルの搭乗して、飛び込んでしまった気になる。アンティノウスはマケドニアをケルト族の侵略から守った。彼は國のため、家族のため、そして名誉のために闘った。
 さて問題点は二つ、早くも、ここで浮上している。現在の地政学がこびりついている現代人の感覚に「ギリシア・ローマ」を一括して「ヘレニズム」と呼ぶことは歴史で習っても、教室の感覚でしかないだろう。当時はともに都市国家の連合体形式の奇妙な国家であったものの世界最高峰の文化水準を誇り、また同時に世界最大の経済力を基盤に世界最強の軍事力を誇った。
 「全ての道はローマに通ず」と言われた。
 北アフリカからトルコにかけて旅行すると明らかになるが「歴史的遺跡」は殆どがローマ時代のものである。(私はカルタゴ遺跡を見に、たとえばチュニジアやシチリアを尋ねているがカルタゴ遺跡はせいぜいが首飾りや土石のたぐい、残りの殆どがローマ時代の劇場、コロセウムそして水道橋である。トルコにおいてすら)。だから三島はギリシアとローマを区別して認識しながらも混同したように用いている箇所は、まさに「ギリシア・ローマ時代」のことである。そして「キリスト教の洗礼を受けなかったギリシアの最後の花」という意味は、日本の歴史に置き換えて言えば「唐」文化に染まる、仏教渡来以前の、最後の日本文化の花、という意味に取って良いのである。それはヤマトタケルか。「大和は国のまほろばたたなずく、青垣山こもれる大和しうるわし」か。
 このときの三島は表面的には単なる「ギリシア狂い」ではあったけれど、後の歴史的覚醒が深く潜伏していく最初の過程と考えれば、あれほど、アンティノウス像に憑かれたか、分かるような気がしてくるのである。アンティノウスは純粋にして純正な根源的文化の象徴でもあり、晩年の「文化防衛論」の論旨に繋がる萌芽がこの文章に早くも見えているのだ。もうひとつは芸術至上主義の極致として、「無上の詩」と表現し、三島はそれからの人生の目標をそこにさりげなく挿入しているのである。
 そして現実に三島は大きく変わっていく。
 帰国後の三島はギリシアとローマの影響をうけて、その明るいまでの肉体美を憧憬としつつ「禁色」第二部の物語展開を変更し、さらに「潮騒」という、それまでの三島にはなかった健康そのものの明るい物語を書くのだった。(禁色第二部は帰国後に書かれ、第一部で自殺する女性が死なないで求道者然として再登場していることは拙著でも指摘した)。
 筆者が最初にローマへ行ったのは昭和47年春。30年前のことで、仕事だったためにでヴァチカンは一望しただけである。むろんアンティノウス像をみる時間さえなかった。二度目のイタリア行きは11年前のことだったが、そのときもまたミラノが中心でヴァチカンを見たのは僅か30分だった。
 どうしても行かなければとの想いが募ったのは、ギリシアを見てからである。三度目の正直で、2001年4月初旬、ローマへ行ったのは、折からイタリア人の有志が開催した「ローマ憂国忌」こと「イタリアにおける三島文学研究シンポジウム」に招待され、その余勢をかって出かけたのである。
 「キリスト教の洗礼を受けなかったギリシアの最後の花」を、これほどまでに三島が称えた事実を現代のイタリア人はどう考えているのか。
 この点に、実は筆者は一番興味があった。三島の最後の行動がイタリアの知識人にいまも巨大な影響を与えている事実については別のところにも書いたけれど、要するに「愛の熱狂」を語るフランスや「オペラ」のドイツとイタリア知識人の三島由紀夫認識とその評価は全く異質、それも本格的関心と言っていいのである。
 単純明瞭に言えば古代ローマの血がさわぐのだ。
ローマ憂国忌
ローマ憂国忌で講演する宮崎正弘
 ムッソリーニへも、ダヌンツィオ(天才作家として「死の勝利」と「聖セバスチャンの殉教」は三島に多大な影響を与えた)も、日本の武士道を高く高く評価した。ムッソリーニへは、会津白虎隊に感激し顕彰碑を寄贈したほどだった。
 そういえばローマ時代の政治家カトウは切腹している。現代のイタリアの保守回帰は、そのローマのいにしえの価値観に還れ、と呼びかけている思想運動でもあり、疑似のヒーローとして三島が必要ということかも知れない。
 なにしろ三島の日本刀をぎらりとさせて額に「必勝」の鉢巻き。裸の三島が睨む構図のポスターがローマ市内のあちこちに貼られ、「言葉の責任を取れ」と書かれていた。
 歴史の悠久の感覚からすれば30年後のイタリアの憂国忌が季節はずれ、との誤認があるかも知れないけれど、事件から30年を閲して、ようやくイタリア語の翻訳が出揃い、その全貌をイタリア知識人らが知ったのである。
 かれらもまた、長い歴史を誇るが故に震えるほどの感動を抱くのは、むしろ「同時代的」な反応なのである。彼らが三島のほぼ全貌を30年後のいま、確実に歴史のメッセージをして掌握し、多くのイタリア知識人が時空を越えて古代ローマを呼び戻し、感動した。
 それが分かっただけでも「ローマ憂国忌」は意義深い催し物であった。イタリアの三島研究集会当日のローマのある新聞には、三島由紀夫の辞世まで克明に説明されていて驚かされた。古代ローマの騎士たちの行動、人生観などに印象が重なる。ローマにいると古代のサムライたちの鼓動が聞こえそうになる。
 三島作品で参加者が一番読んだと言ったのは意外なことに「若きサムライたちのために」ついで「葉隠れ入門」「太陽と鐵」「文化防衛論」それから小説「奔馬」がでてくる。 日本に留学中は墓参りやら実際に15周年の憂国忌にも出席したこともあるネロ・ガッタ教授が文化防衛論について語ったが内容は本格的な哲学論であった。続いてイタリアの代表選手らによる空手演舞が「奉納試合」のように行われ三島が愛した日本武道の精神について解説がなされた。それから小生の記念講演。題して「三島と日本回帰」。これは通訳を入れて一時間10分、熱弁を振るった。
 二日間にわたった「ローマ憂国忌」の翌日、筆者はロゼッタ・バリエ女史の案内でヴァチカンへ赴いたのである(彼女は北一輝など1930年代の日本の右翼思想を研究している)。

マグダラのマリア
マグダラのマリア
 ヴァチカンは荘厳というより、華麗過ぎて、全てがぴかぴか輝いて見えた。闘牛場のような菱形のコロセウムのごとき広場に数万の観光客がひしめく。いわばギリシアの円形劇場を巨大化した、壮麗にして大胆な空間。日本的美は何一つ感じることはない。しかしながら世界中からカトリック信者らは信仰の総本山を拝みに、異教徒らは、単に観光目的に、ギリシア正教徒は、まだ大きく距離を置きながら、見に来るのだ。
 三島はこの中に「非キリスト」の象徴としてアンティノウスを見いだし,感動したふりをしたのかも知れない。いや、ひょっとして三島が言いたかったのはヴァチカンの「美のよそよそしさ」であるかもしれず、ヴァチカンそのものの記述をしていないのである。広場のローマ遺跡を模して創った現代風な設計思想も、三島には意外とつまらなく映ったのではないか。
 折しもヴァチカンはユダヤと融和し、ギリシア正教とも和解し、そして中国とも「国交」を結ぼうとしていた。カソリックの誇りは現代的に咀嚼されつつあり、イタリアからカソリック原理主義のかげが消えたのは、既に何年も前である。すなわち、カソリック信徒にも離婚が認められ、さらにはイタリア知識人の間に急速にキリスト教への信仰が薄らいだ。厳格に禁止されていた中絶も黙認されるようになり、すると人々は教会に行く頻度を減らし始めた。
 イタリアにおける少子化は日本のそれをしのぐ1.33%(日本は1.34%、ドイツ、1.37%)加えてここにアルバニア、旧ユーゴスラビア、モロッコ、そして中国からの不法移民の夥しい流入が、不可避的にイタリアにも伝統、民族、歴史への覚醒を促す。その状況は日本の現在と重なる。
ベネチア風景
左 ルネッサンスのイタリアを代表するベネチア風景
右 同じくベネチアの港風景

 もし三島が「最後の花」とアンティノウスに託した、そのメッセィジに隠された意図を籠めたとすれば、三島がイタリアの一部から「預言者」のごとく扱われるようになった理由がなんとなく分かるような気がする。
 ローマは朝夕の風が冷たく、現地の人たちは革ジャンかコートを羽織っている。太陽はあかるく、観光客は地底からわきいずる蟻の集団のように長い長い列を作っていた。ヴァチカンで美術館への入場待ちが二時間、これでは東京ディズニィランド並みである。
 私たちは近くのカフェに座ってイタリア独特のエスプレッソを飲みながら、日本とイタリアの歴史認識について話し合った。彼女はシチリア出身で先祖はフランス系、三島がアンティノウスをみて感動した、というと「ふぅん」という表情をした。「キリスト以前」のローマに興味があるという多くの参会者とは別で、バレリ女史はむしろ、さっきも紹介したように1930年代の日本の右翼思想に興味があるのだ。政治体制の改革は、それを叫び、決起し、失敗した悲劇のヒーローたちを三島が「英霊の声」などに描いたわけだから、イタリアの改革を叫んだ、あのダヌンツィオと三島を比較しようとするのだろう。
 しかし「ダヌンツィオ派」は、アンティノウスに興味を示した三島にあまり興味も示さなかった。「愛の熱狂派」のルスナールを軽蔑しながらも、三島が指し示した別の企図には、興味を持とうとはしなかった。バレリは個人的には三島より川端康成に日本および日本人の優しさを感じると言った。ローマ憂国忌に集まった多くの「東洋のダヌンツィオ」とした評価と、ここに早くも違いを見て筆者は面白い、と思った。
 三島がアンティノウスに感動した記述はあまり深く解釈すべきではないのかもしれない。


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