私が十数年前、よくニューヨークへ通っていた頃、3番街からレキシントンにかけての寿司バアへよく行った。中をよく覗いて経営者が韓国人か中国人で板前が日本人なら躊躇なく入った。必ずカウンターに腰掛け、先に板さんにチップをわたすと、魔法のように「これ、サービスね」と言ってでてくる、でてくる。ようするに「包丁一本の世界」の職人を中国人、韓国人は使い切れないから、味の分かりそうな日本人が来るとつい、サービスしてくれるのである。
しかし三島が行った当時、寿司バアはなかった。
だからイタリア料理に関して三島は思わず筆を走らせ、
「五十二丁目のレキシントン街と三番街の間にある「マリア」というイタリー料理店へは、友人に誘われてたびたび行った」が「このみせで私以外に日本人を見たことがない」。
そこでや私も何回目かのニューヨーク滞在中にその店に行こうとして道を迷い、結局発見できなかったことがある。レストランは始終経営者が変わるから仕方がないにしても、「有為転変は世の習い」。それにしても変化は激しすぎる。
米国でイタリア料理が安いというのは神話である(ちなみにあのイタリア街は、いまやチャイナタウンに飲み込まれている)。
むろんファミリィレストランもあるが、特にニュ−ヨークでシェラトンホテルの真ん前の豪華なイタリア・レストランで生の蛤を食したり、ロックフェラーセンターの並びの有名なところで、いつだったかエコノミストの水野隆徳氏とワインを飲んだら昼間から200ドル近かった。それも10年前の話し、今は米国はバブルがまだ続いており、ちょっとした有名店では目の玉が飛び出るほど高いだろう。
ともかく旅行ガイドのような文章さえ、今日駆け出しのフリーランサーでも書かない時代だが、三島がニューヨークへ行った頃は、厳しい外貨制限があって、誰も簡単には海外へ行けなかった。
従って三島のニューヨーク紀行は、すべてが新鮮な報告だったのである。
今、ブロードウェイの芝居はミュージカルが主流で、しかもチケットは日本でも予約出きる所為か日本の若い女性が占領していると表現しても、たぶんそれほど大げさではない。
2000年10月に一週間ほど、それも都心のホテルが取れず84丁目あたりのビジネスホテルで暮らしたことがある。人に会うのは都心だから、夕食をブロードウェイの芝居小屋の近くで取り、それから有名なパブ、バア、もしくはホテルのシガー・バー(最近、禁煙の米国でたばこがスパスパ吸えるバアが流行中。日本にも上陸し青山、広尾、銀座あたりにもあるという)で飲む。
さて夜の十時から十一時にかけて、この付近で何が起きるか?
ミュージカルをはねた人たちが一斉に道路へでてくる。レストランは予約がないと入れない。先の芝居関係御用達のような有名レストランは特に満員、この文脈ではアメリカ人もまた俗悪である。
そしてホテルのロビィは日本語であふれかえる。ミュージカルを見た日本のツアー、それも殆どが若い女性がどっと帰ってくるからだ。ところがアメリカ人と違って彼女たちは食事を楽しまず、バアにも寄らず、部屋で即席麺を拵えたりして高いミュージカル代を捻出すると言うから涙ぐましい話ではある。
三島が指摘した有名店の「サーディズ」で私は偶然、朝食をとったことがある。
正体不明のプロジュウサーみたいな男が女優の卵のような女や、その金主とおぼしき初老の、嫌らしさ丸出しのスケベ男やら、第一、ホストがホモセクシャルで耳に派手なイヤリング、品をつくった喋りかた、反吐と催したくなるインテリア、まさに悪趣味で、一時、三島さんはこういう世界が果てしなく好きだったことを思い出した。
とてもお勧めできる店とは言えず、少なくともおいしいものを食べようと思ったら、行くところではない。
ジェイムスディーンの座ったところ
二回目の米国旅行を三島はかなりの時間的余裕と金銭的余裕とを持って出かけ、「八月にニューヨークに着き、九月いっぱいカリブ海とメキシコをまわり、十月にニューヨークへ帰って、十月末にはそこにいる筈であった」(「旅の絵本」)。
お上りさんと変わらない三島は「音に聞くアクターズ・ステユディオを見学に行った」り、「ディーンが良く飯を食いに行っていた五十四丁目のジェリースへいって、ディーンがいつも座っていたという一ぐうに座った」りもした。
隣のニュージャージー州のちかくへ親戚を訪ねたくだりは、いつもと変わらぬ微細な表現でつぎのように描かれている。
「ハドソン河畔の初冬の日差しは、ニューヨーク市内よりも明るく思われる。満々たる水の上を白い油槽船が、河岸の枯れ木のレエスを縫って通る。対岸のニュージャージー州も、煙ったような枯れ木林の鶯いろに覆われている。(原文改行)落ち葉をふみわけて川岸へ、斜面の小道を下りてゆくと、下枝の少ない木々は乾いた白っぽい色をしていて、みな同種の樫である。」(「新潮」昭和33年11月号)。
しかし手違いが生じ、三島の「近代能楽集」の上演がいつになるか分からない状況に陥っている。三島はその年の瀬までニューヨークへ住まなければいけなくなった。初演に立ち会いたいからだ。
そこで、グリニッジの安ホテルへの移動である。
「ソロソロ私の倹約生活が始まった」と三島は、その日から日記を家計簿代わりに克明な支出を記録し始める。夕食が8ドル、お茶が2ドル50.。。。
「十二月のはじめ私は、グリニッチ・ヴィレッジに移った。それまでいたホテルは、五十二丁目のパーク・アベニューの東にあって、とちとしてもっとも高級なところだったし、ホテルもマリリン・モンローの定宿であり」、金持ち、貴族が多かった。
移ろうとした安宿は「カビの臭いがした」造りで部屋は「床が斜めにかしいでおり、裸電球が天井からブラ下っていて、周囲の壁紙は、何十年前に張ったか知れないが、決して日光のためではなく、ただ時間のために色あせていた。そして妙な電気冷蔵庫がドスンと座っており、その白い色が黄色っぽくなっていた」
あまりにも悲惨なのでそこはやめにして、もう少しましな安ホテルに移るがモーニングサービスさえない。
それから三島はあまり人にも会わず、ひたすら倹約生活、地下鉄と徒歩でやたらニューヨークをほっつき歩く。
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ニューヨークのプラザホテル
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「ぜいたくなところへは行け」ずに、「雨の降る日も傘も差さず」、「レインコートを洗濯に」もださずに「人とのランチの約束を断ったりした」。そのくせ好奇心が旺盛なので近くの教会に「アメリカニズム対コムニズム」と言う演説会に行って、そこにいた若者たちと飲みに行ったり。
今日のグリニッジ・ヴィレッジは高級住宅地と化し、日本人が多い。またかの倉庫街だったソーホー地区がブランドものの高級ブティックの並ぶ「原宿」のような街に生まれ変わり、これを当てにしたギャラリィが次々と店開きしている。三島が生きていたら、この変化には驚くに違いない。
「マイフェアレディ」に感激
三島はこうした倹約生活の間にシテイバレイを何度も見に行って感動している。それは「旅の絵本」でも観劇日記風につづられていて、さすが演劇人三島の面目躍如である。
一方で、三島はこのころからブロードウェイの芝居に「ミュージカル」がロングランを続けている現実に瞠目している。
日本の演劇人はこの新しい現象をまだ知らない。
当時の日本の芝居と言えば新橋演舞場、歌舞伎座ぐらいで、一体全体、ミュージカルってなんだろう?と三島の報告に注目が集まったのである。
なかでも「マイ・フェア・レディ」について三島は紙幅を大いに割いて論じるのである。
たぶんこのミュージカルにしても日本人で一番早く見たのが彼であろう。
「ほかのミュージカルを見た上で、やはり一頭地を抜いたものであると思った。それはただ台本や演技のみによるのではなく、あらゆる舞台上の所為かが最高の水準を統合したものであるからであった」。三島はいくつも戯曲を書いているから、劇の構成にはうるさい。
克明にメモを取って「第一幕は早い場面転換」とか「大きく左右に割れる装置」「劇と音楽のピッタリ合ったクライマックスの効果」などが三島を「うならせた」
やはり演劇にやみつきの三島らしい、ついには小劇場からテント劇場へと足をのばし、当時最大のヒットと言われた「ウエストサイド・ストーリィ」にたどり着く。
苦労して切符を手に入れ、「今まで挙げたミュージカルはすべて続演された残りかすのようなものだあったが」「最初の新鮮な」感動的なそれに接した、と三島は素直に書いている。
毎日が暇だから、今度は最低の芝居をみた「ロイヤル・プレイハウス」と言う芝居小屋は「何をかけても大失敗で惨憺たる入りという札付きの小屋だそうで、バロック風の装飾や古風なシャンデリアにも、おそらく貧乏神がすみついてしまったのであろう」と酷評している。
グリニッチの生活になれた三島は、その後ニューヨークへ来る毎に「ショービジネス?」とタクシーの運転手に聞かれながら観劇に行って、安バアで飲んだ。しかし酔っていても三島の記憶力のよさと言い、観察眼の何という鋭さであろうか。
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「外人の女は酔うと年齢があらわになる。金髪娘は美しい顔をしていたけれど、ひどい酔い方で、くぼんだ目の眼窩の中のシワがひきつってぬれていた。赤い爪で髪をしきりに掻き上げるのだが、こんな動作が、自分の髪の毛に対する彼女のしつこい夢のような執着を語っていた(「東京新聞」昭和36年1月30日)。
待てど暮らせどプロジューサーたちはいっこうに上演予定を具体化せず、交渉はいっこうに進捗せず、とうとう頭に血が上った三島は、今度はヨーロッパ周りの一等の飛行機を予約し、貧乏におさらばして帰国を決意する。
間に立ったドナルドキーンの計らいで彼らと食事することになった。
三島はプロジューサーに単刀直入に聞いた。
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「君たちのプロダクションの仕事は、作家を憎んでいるときと好いているときと、どちらがやりやすいかね」
すると回答があった。
「作家を憎んでいれば、プロダクションの仕事が駄目になっても、自分だけのロスのみでなく、作家に対していい気味だという気持ちが加わるから、それだけ楽に違いない。しかし僕たちは、君をすいているんだよ」(引用はいずれも、ちくま文庫「外遊日記」から)。
帰路、どうしても寄りたかったローマ
昭和32(1957)年の暮れの三島は、こうしてニューヨークに長く逗留して意味のない日々を送り、悄然として帰国の途につくのである。しかし三島はやはりローマへ寄った。
初回の訪問でバチカンを見て、アンティノウス像の美しさに感激し、なにしろ三島にとってイタリアは印象が良い。どうしても帰路に寄りたい。
そして帰国の長い長い空の旅。
当時は「南回り」、それもヨーロッパをでた機は中東、イラン(かパキスタンあたり)、インドかタイ、そして香港がマニラを経由して長い長い時間を窮屈な機内で過ごす。しかし三島はこうかくのだ。
「終日飛行機に乗っているのに、少しも飽きないのはどうしたわけだろう」
途中で見た「どことも知れぬ港の灯火の群落と、青い灯台」。
1958年1月10日、三島は半年がかりの世界旅行から帰った。
それでも米国に対する三島の態度は、晩年の「愛国的ナショナリズム」の萌芽さえない。アメリカの景観は好きであるとさえ、三島は書いている。
「すべて美しい。感心するのは極度の商業主義がどこもかしこも支配しているのに、売笑的な美のないこと」が三島を魅了したというのである。
三島にとってのニューヨークは、素晴らしい芸術の都、世界の中心、何度行っても飽きない都市ではあるらしかった。
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