三島由紀夫文学紀行
その3 パリ
花の都・パリでの三島は陰鬱なる冬をおくった

陰鬱な空、あの底冷え

 三島は初の海外旅行では南米がすっかり気に入って、リオのカーニバルを見るために滞在を少し延ばし、それからレイモン・ラディゲを産んだ、いや三島の二十代までの作品群に巨大な影響を与えたフランス文学の、花の都へとやってくる。三島が27才のときである。ところが三島のパリの印象は甚だよくない。
 「冬のヨーロッパを旅しているあいだ、私はいつも太陽にあこがれていた。パリやハンブルグで、昼のあいだずっと灯りつづけているネオンサインにおどろいた。朝起きるときから外光は夕方の薄明で、ネオンの色は少しも薄れず、夜よりもむしろ鮮やかに見えるのである。パリの冬の来る日も来る日も頭上を閉ざしている陰鬱な空、あの底冷え、永遠の鼠いろ、…そしてそこかしこにきらめいている寒色のネオンサイン、あれは私にはとてもたまらない。私にはどうして人間があんな陰鬱な冬を生き続けることができるのかふしぎでならない。いまさらながら、日本は何と太陽の恵みによくしている國であろうと思う」(「外遊日記」)。


ガラスのピラミッド
パリの伝統と前衛を象徴するガラスのピラミッド

 パリはいつも黄昏というイメージを三島が終生抱いていたとは思えないけれど、ニューヨークほど頻繁に通ったわけでもなく、仏蘭西語がしゃべれるわけでもなく、まして初回の旅行ではパリで不愉快な事件に遭遇した(ドイツ語なら、少しできるんだがな、と三島はパリ生活中、通訳兼ガイド役でもあった黛敏郎に言ったそうだ)。パリの下町で闇両替に引っかかって有り金すべてに近い、2000ドルのトラベラーズチェックを盗まれたのである。再発行されるまで三島は身動き出来ないことになったのだ。大事なアテネとローマの旅程が短縮される原因である。一ヶ月もパリの安ホテル「ぼたんや」に宿泊を余儀なくされたのも路銀を盗まれたからで、これが三島をパリ嫌いにして所以といわれるのだが、真相は分からない。対照的にパリを目一杯楽しんで、青春そのものを送ったのがヘミングウエイである。彼のパリの印象とはーー
 「もし若いときにパリに住む幸運に巡り会えば、後の人生をどこで過ごそうとも、パリは君とともにある。なぜならパリは移動する祝祭だから」(「移動祝祭日」、今村盾夫訳)。三島はパリになじまなかった。それでいて世界の中で三島文学の精神性に最初の理解を示したのは圧倒的にフランス人であったのだが。「パリ憂国忌」も、竹本忠雄によれば事件後、直ぐに仏蘭西の知識人が集まって開かれたという。だがパリと三島由紀夫は景色を通しては連結しない。三島はパリの景色にあまり興味がない。彼の興味はあくまでも仏蘭西の詩人、芸術家らの内面なのである。
 若き日の三島がレイモン・ラディゲの虜になったことはよく知られるが、16才で詩の天才として登場し、20才でチフスにかかっての夭折という悲劇性がことさら三島の関心を寄せ付けた。加えて「恐るべき子供たち」を書いたジャン・コクトーが巨大な影を三島に投げるのである。三島は自己に巨大な影響を与えた、たとえば保田与重郎や、ダヌンツィオについての記述が意外に少ない事実を今日ようやく多くの評論家が指摘するようになっている。同様に三島はレイモン・ラディゲについては饒舌に語ったが、コクトーについては多少書いてはいるものの、饒舌ではない。若き日の三島は、自己韜晦的であったからだ。

 コクトーは洒脱な芸術家で、一世を風靡した才人だが、映画監督、画家、詩人、作家としての活躍よりもホモセクシャルなスキャンダルでパリでは有名である。レイモン・ラディゲとは公然たる同性愛の関係にあった、といわれている。だから彼が20才で死んだとき、あまりの悲しみにコクトーは麻薬におぼれ、分裂症気味の人の顔が重複するサイケデリックな画を何枚か残す。またコクトーの書いた多くの絵画、デッサンのなかで私にとって傑作と思われる作品は、これすべて男同士の構図のもの、男の美を描いたものである。また三島の「午後の曳航」の少年心理はまさしく「恐るべき子供たち」のそれであり「仮面の告白」はいたるところにコクトーの影響がみられる。
 何処か人生の後半部から三島はどことなくその芸術家としての奇矯さを売るコクトーをまねて「空っ風野郎」に出演したり,映画を自ら創ってみたり、舞台に立ったりの「自己表現」ぶりもコクトーに学んだことが大きいように思う。
コクトー
S・ミディが描いた
晩年のコクトー


ラディゲと三島の「盗賊」

 先に話題がかなり脱線した。パリでのことはレイモン・ラディゲをまだすこしく綴らなければならないだろう。
 「肉体の悪魔」と「ドルジェル伯の舞踏会」の二冊だけで、しかし不朽の名作をのこして二十才でこの世を去ったのだから「滅びの美学」に憧れ、日本浪漫派に酔いしれていた三島にとって「ラディゲ病」に罹り、その青春像へと直接的に結びつくのは極々自然の流れである。まして三島は少年時代、20才で死ぬことにも密かに憧れていたのだから。
 しかしラディゲの作品は「典型的な古典主義の手法で書かれたラファイエット夫人やラクロの小説を模倣したものであり、その当時の手法とは全くかけ離れたものであった。(中略)三島がいかにラディゲから影響を受けたかは、ラディゲについて書いている数多くの作品をみても明らかだ」(ベアタ・クビャック・ホチ「ラディゲの役割」国見晃子訳、「世界の中の三島由紀夫」勉誠出版所載)
 三島は十代の後半に「ドルジェル泊の舞踏会」を堀口大学訳で読み、その文体の華麗さにも感動した。「私は、堀口氏の創った日本語の芸術作品としての「ドルジェル泊の舞踏会」に、完全にイカれていたのであるから。それはまさに少年時代の私の聖書であった。」(全集三一巻)。三島作品でラディゲの影響が最も強く出ているのは「純白の夜」と「美徳のよろめき」である。ラディゲは「クレーブの奥方」やラクロに影響を受け、しかもコクトーの推挽で文壇にでた。二人はその前後から同性愛の関係にあった、といわれる。(念のため今年5月20日まで渋谷東急bunkamuraで開催されているコクトー展を見学されるとよい)。

ジャン・コクトー
ジャン・コクトーは
才人でありすぎた

 三島はそのことに気づき始め、盲目的なラディゲ信仰が納まると源流を研究し古典劇の悲劇や「小説的美学も読めてきた」(同)のである。そして三島は小説的技法について学び「完全に洗いあげられて、瑠璃の建築のような透明な骨組みばかりをあらはしてき」たが「いつまでも目に残るのは、すべてを引き絞って、大団円への効果へ収斂していく、その光学的構造であった」むろん、この当時の三島はラディゲが前衛芸術を憎み,軽蔑して「前衛なんていずれ泡のように消えてゆく運命にある」と言っていることには何の関心も寄せていない。彼はそんなことよりもレディゲの手法をまねて「盗賊」を書くのである。「盗賊」は三島が九ケ月いた大蔵省時代の「寝不足」の産物ではあるものの、あまりに人工的な筋運びが評価を二分させている。今日、三島文学記念館に収められた初期の創作ノートによって、三島が「盗賊」に異様なほど長い創作時間をかけたのは5,6つのストーリィを考えていたからだと判明している。

コクトーへの傾斜

 三島がコクトーへの興味を「映画」への関心に焦点を当てて書いたのが「ジャン・コクトーと映画」(「文芸」昭和28年6月)である。コクトーは既に「美女と野獣」とか「恐るべき親たち」「双頭の鷲」などの名作をいくつかものにしていた。三島はじつに映画好きで筆者が知っている頃は高倉健、鶴田浩二ばかりだったが、昔は洋画をよく見た。海外でも行った先で夜、暇になると映画を見たことが往々にしてあると「外遊日記」にはでてくる。
 さて三島は「コクトオが形象によってものを考え、形象の構築によって思想に到達する型の詩人であることを考えると、彼が映画に魅力を感じたのは至極当然な成り行き」とした。(同前掲書)。
 そして1960年、とうとうパリで三島はコクトーに会った。このときの興奮をつづる三島の文章には、―「少年時代からあこがれのコクトオの実物を見ておきたい」とする何気ない一文が挿入されているではないか。すなわち1960年12月15日午後、朝吹登水子の案内で三島夫妻は「モンパルナスのカフェ・ドームで待ち合わせ、そこから少し歩いて、とある学校の校内へ入ってゆき、その学校の地下にある客席三百(?)ほどの小劇場へ入った」(「稽古場のコクトオ」、昭和36年3月「芸術新潮」)


モンパルナスのカフェ・ドーム
モンパルナスのカフェ・ドーム

 コクトー、70才のときである。
 カフェ・ドームについて脱線する。あの「失われた世代」と言われた1920年代のデカダンスが支配するパリで、ヘミングウエイは、やはりここを根城にしていた。
 モンパルナス駅からカルチェラタンへいたる道々、地下鉄のヴァヴァン駅をあがると、ヴァヴァン交差点の角にある。さらにワンブロック歩くと「クロズリー・デ・リラ」がありヘミングウェイが毎朝、カフェクリームを飲んだ、という。ともにカフェとは名ばかりのバア兼レストランで、前者は生牡蠣がおいしいことでも有名。これにケチャップをかけ、ヘミングウエイはバーボンと飲んだが、果たして三島はこの店で何を食したのか?
 さてコクトーである。35才の三島は結婚していたうえ、このときは夫人同伴でパリにいたので、少年時代とは違う気持ちで彼に会いに行った。やがて「茶色の外套姿の長身のコクトオが現れたときには、一種の感激を禁じ得なかった。これが永年憧れてきたコクトオその人だと思うと、後光がさしているようにみえた」とまで書いているのだから、えっ。三島さんって、ラディゲに熱狂してたんじゃないの?と思う読者もきっと大いに違いない。
 そして三島は「オルフェの遺言」を見た感想をこう綴るのである。
 「コクトオの見果てぬ夢と、不可能な希望とが、いたいたしいほど露わにでている。彼が序言でこれを“ストリップ・ティーズ”だと言っているのは適切すぎるほど適切である。コクトオの見果てぬ夢とは自分が自分でなくなることであり、又一方、自分が詩人であると同時に美しい半獣神でありたいという夢である(中略)それを誰がやるか?結局自分でやらねばならぬ。自分で選ばねばならぬ。コクトオ自身がコクトオであることを余儀なくえらばなければならないのだ(中略)あれほど青春を愛したコクトオが、老いさらばえた姿を初めて永永と画面に晒すこの映画」は三島にとっては「自己聖化」もしくは「自己神化の欲望に取り憑かれた」からだと解釈するのである。(昭和37年5月「芸術新潮」)。
 それから僅か8年後の三島事件を「自己聖化」「自己神化」と解釈する向きには、この言葉から心理分析を割り出してゆく必要があるのではないか? ましてや相手は三島が本当に少年時代から憧れてきたジャン・コクトーなのであるからには。
 三島がパリで見かけてから三年後、コクトーは74才でパリに死んだ。
 彼自身「私は早くデビューしすぎた」との言葉を残した。
 三島はその後、コクトー熱から醒めて、距離を置き始め、「軽金属の天使」と比喩するようになり、コクトーが死んだときの追悼文は淡々としている。「コクトオは、前衛と古典とを、完全に融合させた詩人である」(「朝日新聞」、昭和41年2月9日)。そこまで三島を冷静にしたのはパリの陰鬱たる日々か、それともこのころ三島は既に神風連にのめりこみ憂国の論理を展開していたわけだから「軽金属の天使」のことは、もはや程々でよかったのか。


三島のパリ

 冒頭でも述べたように三島はパリの情景にまるで興味を持たないかのように作品の舞台にさえ選んでないのである。仏蘭西文学へのあこがれは人間の内部への省察、洞察であっても景色としての美的興味の対象にはなりにくかったのかも知れない。また天の邪鬼としての三島の性格も考慮に入れなければならないだろう。なにしろ三島が登場した日本の文壇はといえば小林秀雄、大岡昇平、中村光夫、村松剛、遠藤周作、その他大勢、悉くが仏蘭西文学専攻ではないか。東大法科出身の三島としては仏蘭西語を操れない林房雄、川端康成に近親感を覚えたのも自然の帰結であると思える。その三島が仏蘭西通の黛敏郎、村松剛とのちに親交を深めるのも二律背反的ではあるが。
 ところで長逗留したパリの安宿「ぼたんや」はどこにあったのか?
 村松剛の「三島由紀夫の世界」によれば「十六区のアベニュー・モザール(モォツアルト)の南端あたりにあり、ブウローニュの森が近い、同じ宿に木下恵介が逗留していた。留学生として在仏中だった黛敏郎も宿の近くに住んでいて,時折、顔をみせた」(新潮文庫版228ページ)。



パリ16区は閑静な高級住宅街
パリ16区は閑静な高級住宅街

 三島が逗留する羽目に陥ったパリは、重苦しく寒い三月。そういえば三島はブラジルを廻って陽気な太陽に打たれご機嫌のまま、文学で憧れてきたパリについてろくな目に会えなかったのだから実際のパリを、その後の人生で毛嫌いすることになる。二回目も三回目のパリも素通りか短期滞在で、それに比べて何回でも行きたいところはローマだった。
 さて私事に渡って恐縮ながら特に上記の影響で私がパリへはあまり行きたがらないのではない。私が最初にパリへ行ったのは26才のときで、何とツアーコンダクターとして企業研修旅行の添乗をしていた。急ぎ足でヨーロッパ各地を周り、工場視察や会議の合間にちょっと美術館へ立ち寄るなどというスケジュールが組まれていたが業務中に観光なんぞ、実は気もはいらなければ耳から入る知識は通訳し終えるときれいに忘れてゆく。十年ほど前にも二日ばかりパリに寄ったことがあるが、あまり日本人が多く、俗悪なところはささと通り抜けるだけにしたい、と思うから、やはり実が入らない。
 フランス語が出来ないことも、パリをこういう風に表現するのかも知れないが、あの高慢な仏蘭西型の社交が嫌いな所為もある。文学で親しんだパリと、とりわけヘミングウェイが長期に逗留し、隣のスペインを行き来した、あの「日はまた昇る」の時代のパリのカフェ。それがいまや買い物袋をたくさん下げて、聞いたことのない語彙の日本語でブランドの話ししかしない日本の小娘たちが占拠してしまった今日の鬱陶しいパリとは雲泥の差がありそうだ。
 私も三島と同じでパリに行くとかえって憂鬱になるのである。ところがパリで育った藤島泰輔は朝から晩まで仏蘭西の社交界について語りだしたら止まらず、とうとう貴族社会と本格的にコミットしようとして、その第一歩が馬主になるとわかるや早速、日本で馬主になりパリへ進出し直すというくらい晩年はパリに凝った。
 師匠の三島とは正反対である。藤島は学習院の後輩にあたり、デビュー作「孤独の人」は三島が推薦を寄せたものだった。パリの病膏肓にいたった藤島はペンネーム・ポールボネの大ベストセラーの印税でパリは高級住宅街の十六区に豪華な邸宅を求め、よく「遊びに来い」と誘われた。
 「部屋がいくつもあるからホテル代の心配は要らない」と言われても、「そのうちに……」とごまかしている内に藤島さんは急逝、その部屋はいま日本文化会館にリースに供され、初代館長・磯村尚徳が住んでいるそうな。
 そんな話を風の便りに聞くと、またまた行こうという気力を根底からそがれてしまうのである。
 (パリの項、おわり。次回はバンコック「暁の寺の舞台を訪ねて」)


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