毎年毎年、巡礼者は全インドから100万人以上、ヒンズーの儀式を行う祭司は3万人もいるといわれ、ベナレスで臨終を待つインド人は夥しい数である。ヒンズー教の教えでは、シヴァとその妃ドルガの恵みで、ベナレスで火葬され、遺灰はガンジス河に散布されると天国に行けると広汎に信じられている。
三島は最初からベナレスに興味を抱いていたわけではなく、村松剛によれば「ベナレスのことを説明するまで、知らない様子だった」とインドへ行く前に遊びに行ったとき、村松自身からも私は聞いたことがある。(このとき村松邸は麹町のマンションのペントハウスで三島が新居祝いに持ってきたギリシアのテーブルを前にして、私も嘗て三島が腰掛けた同じソファに座ってその話を聞いていた)。
第三部がタイを舞台にすることははじめから予定されていた。インドはその仏教の発祥の地であり旅行の予定ははいっていたものの、ベナレスに三島が実際に行って、書物でしか知らなかった無情を目の当たり西、強烈なる衝撃を受けるのだ。
「さるにてもおそるべきインドだった」とする名文を残すことになるのである。明らかなように第三巻は本筋からはずれた寄り道があまりにも多い作品で、インドもその横道道楽の一つと考えられてきた。
「暁の寺」では主人公の本多が商社の顧問弁護士としてタイに赴き、そこで松枝清顕の生まれ変わり飯沼勲の、そのまた生まれ変わりだという月光姫ことジンジャンに出会い、老いらくの恋をするのだが、それは後のはなしで、第三巻の冒頭では、本多は裁判を勝訴に導いたことで、顧客の商社からインド行きを招待され、ベナレスを見た、という筋立てにしている。実際の三島はインド政府の招待を受け、夫妻で旅行し、帰りにバンコックでかなり長い休養をとった。(その年、三島はノーベル賞確実といわれ、その騒ぎから逃げるためにもバンコックに逗留し「暁の寺」の取材を続けているーーその詳細は徳岡孝夫「五衰の人」に克明に記されている)。
三島はベナレスで目撃した深い「絶望」と果てしない「虚無」とそして淡い「希望」をこう綴った。
「無情とみえるものはみな喜悦だった。輪廻転生は信じられているだけではなく、田の水が稲をはぐくみ、果樹が実を結ぶのと等しい、つねに目前に繰り返される自然の事象にすぎなかった」「本多はこのような喜悦を理解することを怖れた。しかし自分の目が、究極のものを見て しまった以上、それから二度と癒されないだろうと感じられた。あたかもベナレス全体が神聖な「らい」(原文漢字)にかかっていて、本多の視覚それ自体も、この不治の病に犯されたかのように」
この世は仮の住まい
高校生のとき金沢で文学青年だった私は三島が石原慎太郎との「風景」誌上の対談で「この世を仮の住まいだとおもっている」と発言している箇所が気になって、傍線を幾重にも引っ張っていた。
また「美徳のよろめき」のなかの一節は、「死ねばそのとき、あらゆる屈辱は灰に帰する。私は自分の屍を、春の野にゆだねるだろう、野火の後の黒い灰のなかに私の灰がまざるだろう」(新潮文庫版)。と何気なく挿入されているが、三島は若いときからこうした無情を持っていた証しである。
――そうだとすれば現世(うつしよ)とは何なのか。
郷土の石川県は、嘗て一向一揆が富樫氏を滅ぼし独立国然として治めた浄土真宗の王国である。前田利家はその後の移封である。その信仰の基礎は輪廻転生であり、この世で善行を積めば極楽浄土へいけると小さい頃から耳にタコができるほど聞かされ、私も育った。(正確な仏教解釈でいえば「輪廻」だけだが、この稿では三島の用語をもちいる)。
父は小さい私を連れて尾山神社へよく連れて行った。一向宗の城跡と伝えられるところである。叔母は子供の頃の私を日曜日ごとに近くの真宗の寺へ手を引いていき、仏話を叔母が聞いている間、庭で遊んだ。池に蓮が咲き、「仏教の極楽浄土とは蓮の花に囲まれているのですよ」という話を毎回聞かされたのである。ならばいざ、私もベナレスを見なければ、この先の自分の人生も先へ進めないのでは?との思いがあった。
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三島が「暁の寺」で披露した宗教哲学への蘊蓄はただならぬ世界であり、ベナレスを観察することで、その一端に触れることが出来るかも知れない、などとかなり大袈裟な決意を秘めていたのである。出発の前の晩、私は興奮してなかなか寝付くことが出来ず、ウィスキィを飲んでも目は冴えわたり、とうとう山川出版の「インド史」を読み出して、明け方に少しまどろみ、それから羽田空港へ向かった。インド航空はDC−9、126人乗りである。昼頃、カルカッタへ向かって時間通りに羽田を飛び立った。
この時代、インドへの直行便はなく、途中、香港とバンコックへ寄港する。
2月の東京は極寒なのに香港は暖かく、バンコックは灼熱だった。機内から初めてみるタイの地獄のような暑さは遠景を陽炎のように揺らして見せた。
――いずれ近い内にバンコックにも来るだろう、と私は漠然と考えていた。
カルカッタは、タイよりも灼熱と聞いていたので冷たい水やコカコーラが簡単に買えるだろうか、などと小さな不安が次々と脳裏を横切る。東パキスタン(現バングラデッシュ)上空から夜のカルカッタへ着陸した。三島夫妻の場合、コースは逆でニューデリーからボンベイ(アーランガバッド)、シャイプール、アグラーーカルカッタとたどっている。
1967年9月である。
「インドはふたたび、現代世界の急ぎ足のやみくもな高度の技術化の果てに、新しい精神的 価値を与えるべく用意しているのかも知れない」。というのも「(インドでは)問題そのものにと って、解決が全てではない」(「インド通信」、朝日新聞67年10月23/24日)と三島も帰国直後に書いている。
その印度へ私もとうとうやってきてしまった。
照明がほとんどないので夜景といっても壮大な田舎と感じるだけで、いざ街へ出ても暗いので目が慣れるまでカルカッタの風景は分からない。微かな電灯がぽつん、ぽつんとともっているが、わびしい風景である。驚いたことにその周りは黒山の人、人、人の波なのである。目がすっかりカルカッタの街に慣れると、道路にあふれ出した人は日中の暑さを避け夜に集まり、会話をし、食し、納涼を求めていることが分かった。ガイドは「絶対に乞食を見てもお金をやらないで下さい」と言う。理由を問うと、もし金を恵むと、それを見た人が次々と手を出すので、直ぐに数百、数千の人々に取り囲まれ、危険だと教えてくれた。それもまた驚きである。それならインドで乞食は、どうやって生計をたて逞しく生きているのだろう?
それから三日後、わたしは飛行機でベナレスへ飛んだ。
暗記した三島のベナレス風景の一節一節が頭の中で発酵し、ぐるぐると風景を二十三重に、三島の表現がとりつく。
「私はインドへ行って死の問題を考えされられた」(「日本および日本人」68年9月号所載「栄誉の絆でつなげ菊と刀」)。
「人間の肉の実相がその排泄物、その悪臭、その病菌、その屍毒も共々に、天日のもとにさら され、波の現実から蒸発した湯気のように、空中を漂っていた。ベナレス。それは華麗なほど醜い一枚の絨毯だった。千五百の寺院、l朱色の柱にありとあらゆる性交の体位を黒檀の浮き彫りであしらはれた愛の寺院、ひねもす読経の声も高くひたすらに死を待っている寡婦たちの家、住む人、訪ふ人、死んでゆく人、死んだ人たち,瘡だらけの子供たち、母親の乳房にすがりながら死んでいるこどもたち。。。。」(「暁の寺」)。
まさにその情景を私はじっと見ていた。
ガーツ(川岸)に群れる夥しい人、人。川霧の寒さのなかで船を待って、それから二階建てのボートに移る。船からカンジス河を見学するためである。
薄着を纏い、肌寒い水を浴びて朝日に祈る。沐浴する人の隣は歯を磨き、洗顔し、唾棄するがいる。岩礁には仙人のような哲学社風の老人がヨガをしている。三島はこの情景を「暁の寺」で活写したばかりか、その後の人生観に決定的な影響を及ぼし「日本文化」「伝統的価値」「天皇」「命より大切な価値」などといった、従来の語彙よりも過激な言葉を好むようになるのである。 それにしても雑多で猥雑で、それでいて何かしら神々しい世界なのか。
私は感動を覚えながら目を凝らして、この聖なる都会の朝の儀式を見つめるのだった。
瞼に焼き付く聖なるカンジス河
それからもインドへは3回行った。
そのうち2回はベナレスとはまったく関係のない旅で、88年イラクの「アラブ平和会議」に招待された帰路、ボンベイに一泊した。驚くほどの文明の発展、高層ビル、高速道路、巨大なインド門。夥しい乞食、しつこく歩行者、観光客にまとわりつく人力車。人なつっこい子供たちの笑顔。嗚呼、変わらないインドがそこにはあった。
96年にもまたまたボンベイに行ったが、ムンバイと名前が変更になって、さらにインド最大の商業都市をして殷賑を極めていた。全日空が新たにムンバイ路線を開き、その就航記念に招待されたF氏からの誘いだった。
私はついでとばかりハイテクのメッカ・バンガロールを取材することにしていた。
日本のコンピュータ産業はまだどこもバンガロールに進出していないときで、大倉商事の紹介を得て、アメリカの合弁工場を視察し、工場長を訪ねて2時間ほどインタビューした。インド人が数学の天才を輩出する背景が良く分かったが、そのことは本稿では措く。私がバンガロールで驚いたのは、あまりに美しく、華麗で、とてもインドとはおもわれない街だったからである。ベナレスは、あの街こそはインド全体でも特殊な街なのだ。生と死が同居する街なのだ。そしてベナレスの衝撃から、あっという間に20年が過ぎ去った。45才になったとき、私は「あ、これから三島さんより長い人生がはじまるのか」と思うと一種の焦燥感が身体中からわき上がってくる興奮に包まれた。ならば、いま記憶のある内に三島さんと共有したあの昭和40年代のことを書いておかなければならないと思うようになった。
とはいうものの日常の仕事に忙殺されているうちに、なかなか先へはいかない。
物書きは締め切りがないとなかなか執筆には取りかかれないのである。
そうこうして荏苒とときをうつしているあいだにも今度は50才になり、定期検診で肝臓に陰があるといわれて、驚いて入院、手術を受けた。
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