バンコックの「学生革命」について私は大急ぎのレポートを何本か綴った。
私は早とちりに「百年遅れの明治維新」と書いた。林房雄がそれをじっくり読んで「宮崎くん、これは大げさじゃないのか」と諭すように言った。
「あの國に維新が起きる?」
矢野暢(当時、京都大学教授になったばかりの新進批評家で論壇デビュー直前だった)が「絶望的なまでに古いパターンだ」と学生の裏側にうごめくタイの権力機構の、古くて、カビのように変わらぬ体質を批判していた(ついでに書いておくと、このころ私は矢野教授が上京するたびに新宿へ連れ出して飲んだものである)。
タイの権力機構は、それからも殆ど、代わり映えがしない。ぬるっとした、つかみ所のない、タイ式の笑顔のなかかに政治が、汚職もろとも包み込まれ、民衆も暴力を用いてまでの反乱を起こす気がないことは他の東南アジアーーたとえばインドネシア、マレイシアーーと比べても明確に了解出来るところである。
田中角栄総理がタイを訪問したときは、たいそうな反日暴動が起きた。
それでもおとなしい反抗だった。ところがインドネシア訪問では大暴動に巻き込まれ、荒々しく迎えられたのだ。軍が出動し、田中角栄首相一行は命からがら逃げて帰ってきたという不名誉な歴史の一齣があった。
さて初回のバンコック行きのことに話は戻る。
学生たちとの用件が手間取り、日経新聞の特派員を訪ねたりするうちにシンガポールへ出発する日になった。そこで一泊し、サイゴン行きの飛行機に乗り換えるためである。ところが、バンコックで、私はまだ「暁の寺」を見ていないのだ。
顔なじみになったホテルの運転手に「テンプル・オブ・ザ・ドォーン」(暁の寺)へ立ち寄ってから飛行場へやってくれ」と言うと「アンタ、ここへきてまだいってなかったの?」と言いたげな顔をされた。
運転手はおもむろに車を出して五分もしないうちに路地でとめる。静かな住宅街の一角、その片隅に車をよせるので、「何でこんなところに止めるの?」と初歩的な質問をした。
私は河を艀(はしけ)でわたり暁の寺の建つ中州へ行くということを知らなかった。
チャオプラヤ河の対岸、タマサート大学の斜向かいに聳えるのがワットアルン、これが通称「暁の寺」なのである。私は時間がないので乗り合いの艀をまたず一隻チャーターして対岸へ渡った。(といっても当時は700円程度だった)。
初めて見上げる、その寺は太陽の光を浴びて光り輝いていた。
舟からあがるとバラバラーっと駆け寄ってきたのは土産屋さんの売り子で、次に蛇使いが観光客の首に蛇を纏わせ、カメラの収めさせてチップを貰っている。
寺は近くへ寄ると崩れかけた石づくりで、彫刻の顔も歳月を経て、激しく破損しており、顔がもげていたり、苔むしていたり完全な形のものは皆無と言っていい。ワットアルンは74メートルの大伽藍を囲み、中規模の伽藍が4つ。遠くから望遠レンズをぼかしてみると、あたかもエムパイア・ステイト・ビルと似ている。
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暁の寺(ワットアルン)
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ガイドの説明では18世紀のワットアルンは廃墟だったという。
おりからのビルマとの戦闘に敗れたアユタヤ王朝のタクシン王によって再建され、さらに大伽藍はチャクリ王朝のラマ二世の命令で着工された。ラマ三世のときに一度完成するが、本堂が焼失したためラマ五世の治世下でまたもや再々建立されたという長い歴史をほこる。
大伽藍のてっぺんまで登るとそこにはヒンズーのエラワンとインドラ像がある。これぞタイ仏教のエキスなのである。
何故か私はそれを見たときに一度に疲れがでて、その場にしゃがみ込んだ。
エメラルド寺院よりも黄金色ではないけれど、遠景だけは神々しいのが取り得である。
その後、何回か、タイへ赴いたが、率直に言ってワットアルンは毎回訪問するほどの魅力は持っていない。もっともこれは主観的見解であって「何度見てもあれはいい」という人を何人も知っている。
仕事の関係でそれからも十回近くはタイへ行っている。それゆえ少なくともバンコック市内なら地図は諳んじることが出来るけれど、考えてみれば、バンコック郊外へは、古都アユタヤと有名なリゾートのパタヤ・ビーチしか私は訪れたことがない。
「暁の寺」で何かに憑かれる
三島はノーベル賞騒ぎを逃れるためにバンコックのエラワンホテルに長期に逗留し、間にはラオスへ出かけて、弟の案内で国王陛下に拝謁したり、またタイへ戻って徳岡孝夫とほぼ毎晩会って食事に出かけた(「五衰の人」、文春文庫)。
それはそれとしてあのつまらないワットアルンだけが三島の「暁の寺」の舞台ではない。
ジンジャンと本多が会見し、幼き姫がさっと豪華な座椅子と飛び降りて「日本へつれて帰って」と叫び出すのは離宮での出来事だった。
三島がそのモデルとしたのは当時、共産主義討伐軍本部が置かれた「薔薇宮」である。
いまは観光客に大々的に解放されているが、当時、内部の取材は軍幹部に頼んでも実現せず、三島が夫人と出かけてそとの垣根をかき分け盗み見て、しかし内部の模様を例によって三島が写真機のような緻密な精度で描いている。
薔薇宮は「どれが入り口か分からぬほど多くの仏蘭西窓にかこまれていたが、その一つ一つが薔薇の木彫りを施した腰板の上部に、黄、青、紺の亀甲の色硝子を縦につらね、そのあいだにさらに近東風の五弁の薔薇形の紫硝子の小窓をはめ込んでいた」(「暁の寺」)。
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