三島由紀夫文学紀行
その6 バンコック
ノーベル賞騒ぎから逃れて長逗留のタイで三島が極めた「宗教哲学」とは?

灼熱、熱狂のバンコックにて

 私が初めて「暁の寺」を訪れたのは1972年の暮れであった。
 インドから帰って10ヶ月ほど経過して、私は3週間ほど東南アジア各国をほっつき歩くたびに出た。
 真っ先に行ったのは台湾で、田中政権がいきなり昨日までの朋輩を斬り捨てたインモラルな外交に立腹したからである。台湾ではペンクラブの会長・王濫氏らと会食したり淡水の大学の「日本語学科」に招かれ講演したりいているうちに、予定より一日多く滞在してしまい、香港をすっ飛ばしてそのままバンコックへ入国した。
 宿泊したのはナライで一応四つ星といわれていたが、三島が逗留したエラワン・ホテルに比べると場末のビジネスホテルといった感じだった。
 それでもぜいたくを言っている場合ではない。
 私は拓大OBで印刷会社を経営している住田さんを訪ねた。在留20年の氏からタイの政治経済のあらましをざっとレクチャーして貰おうというわけだ。というのも私には「暁の寺」より先に行かなければならないところがあったからである。

 おりからバンッコクに進出した日系デパートに過激派が爆弾を仕掛けたという脅迫状が届き、物騒な雰囲気が漂っていた(あとで分かったことだが、商売敵の華僑が金をわたして過激な学生を煽り、「日貨排斥」を裏で仕掛けていたのである)。
 そこから次にベトナムの取材(当時まだベトナム戦争中)に行こうとしていた筆者にタイの学生組織へあてた抗議の手紙を後輩たちから託されたのだ。タイの学生たちが日本国旗を燃やしたり、×印を付けて、反日運動を大々的に組織化しようとしていた。 そこで、これに抗議するのという、やや無謀な目的を伴った旅となった。
 そこで出かける前に徳岡孝夫氏に電話してアドバイスをもとめたところ、
 「抗議文はタイ語で書いたんでしょうな?」
 と言われ、出鼻をすっかりくじかれてしまった。私は、それを英語で綴ったのだ。(徳岡氏はバンコックから帰任して2年経った頃で、その後ベトナム赴任になる)。
 学生たちの真の目的は政府の腐敗糾弾にあり、「反日」は隠れ蓑というのが、いろいろと事前調査の結果、私の得ていた正確な情報で、他の目的については支持するとした。
 その抗議文(兼激励文)を学生運動の責任者チラユット・ブンミーの手に直接手交した。
 その夜、彼らを住田家の庭で開かれたガーデンパーティ(それは私を歓迎するパーティだったのだ)に誘ったところ、最高幹部が三人、ついてきて様々な話題について論じあった。
 彼らが「三島は改憲を訴えて腹切りをしたのか」「何故命を賭けたのか」「日本で彼はどういう風に理解されているのか」「命も要らぬ名も要らぬというのは日本の知識人全ての価値観か?」などと矢継ぎ早に質問されたことを鮮明に覚えているのである。その記録を73年2月頃の「日本学生新聞」に掲載したはずだが、既に二十数年前になくしてしまって具体的な会話を再現できないのが残念!
 翌日の現地の英字新聞「ネイション」紙には一面で出た。(ブンミーは、その後世界的有名人となって国外へ逃亡、最近タイへ舞い戻ってタマサート大学教授をしているそうな)。

暁の寺の小乗仏教の国でも政変

 さて「暁の寺」である。
 私はまだ脱線したまま、三島作品の舞台にも近づいていない。
 その旅行はタイそのものが初めてでもあり、見るもの全てが新鮮で、瞼を閉じるといまもカラーフィルムのように色つきであのときのバンコックの情景が浮かんでくる。
 その翌年にタイの学生運動は暴力的になって過激化し、73年10月には「血の日曜日事件」が惹起されてタノム首相が海外へ逃亡した。世に言う「学生革命」で、およそ4,50名が殺された。
 直ぐにタイへ飛んで行こうにも飛行機はバンコック便を控えていたので、現地入りは3,4日遅れた。
 当時世界一周便をとばしていたパンアメリカンに搭乗してまたバンコックへ行く。
 すでに顔見知りとなっていたから数人の学生指導者に集まって貰い意見を聞いた。彼らは興奮して、これでタイの政治は変わる、と熱狂的に語った。その熱狂は一時的にせよ軍部さえも沈黙させ、交通警官まで街から逃げていたから渋滞の整理も出来ず、街は一日ラッシュアワーだった。 私はナライホテルで専属のクルマを頼み、それで毎日移動していた。


アンコールワット全景
アンコールワット全景

 バンコックの「学生革命」について私は大急ぎのレポートを何本か綴った。
 私は早とちりに「百年遅れの明治維新」と書いた。林房雄がそれをじっくり読んで「宮崎くん、これは大げさじゃないのか」と諭すように言った。
 「あの國に維新が起きる?」
 矢野暢(当時、京都大学教授になったばかりの新進批評家で論壇デビュー直前だった)が「絶望的なまでに古いパターンだ」と学生の裏側にうごめくタイの権力機構の、古くて、カビのように変わらぬ体質を批判していた(ついでに書いておくと、このころ私は矢野教授が上京するたびに新宿へ連れ出して飲んだものである)。
 タイの権力機構は、それからも殆ど、代わり映えがしない。ぬるっとした、つかみ所のない、タイ式の笑顔のなかかに政治が、汚職もろとも包み込まれ、民衆も暴力を用いてまでの反乱を起こす気がないことは他の東南アジアーーたとえばインドネシア、マレイシアーーと比べても明確に了解出来るところである。

 田中角栄総理がタイを訪問したときは、たいそうな反日暴動が起きた。
 それでもおとなしい反抗だった。ところがインドネシア訪問では大暴動に巻き込まれ、荒々しく迎えられたのだ。軍が出動し、田中角栄首相一行は命からがら逃げて帰ってきたという不名誉な歴史の一齣があった。

 さて初回のバンコック行きのことに話は戻る。
 学生たちとの用件が手間取り、日経新聞の特派員を訪ねたりするうちにシンガポールへ出発する日になった。そこで一泊し、サイゴン行きの飛行機に乗り換えるためである。ところが、バンコックで、私はまだ「暁の寺」を見ていないのだ。

  顔なじみになったホテルの運転手に「テンプル・オブ・ザ・ドォーン」(暁の寺)へ立ち寄ってから飛行場へやってくれ」と言うと「アンタ、ここへきてまだいってなかったの?」と言いたげな顔をされた。
 運転手はおもむろに車を出して五分もしないうちに路地でとめる。静かな住宅街の一角、その片隅に車をよせるので、「何でこんなところに止めるの?」と初歩的な質問をした。
 私は河を艀(はしけ)でわたり暁の寺の建つ中州へ行くということを知らなかった。
 チャオプラヤ河の対岸、タマサート大学の斜向かいに聳えるのがワットアルン、これが通称「暁の寺」なのである。私は時間がないので乗り合いの艀をまたず一隻チャーターして対岸へ渡った。(といっても当時は700円程度だった)。
 初めて見上げる、その寺は太陽の光を浴びて光り輝いていた。
 舟からあがるとバラバラーっと駆け寄ってきたのは土産屋さんの売り子で、次に蛇使いが観光客の首に蛇を纏わせ、カメラの収めさせてチップを貰っている。
 寺は近くへ寄ると崩れかけた石づくりで、彫刻の顔も歳月を経て、激しく破損しており、顔がもげていたり、苔むしていたり完全な形のものは皆無と言っていい。ワットアルンは74メートルの大伽藍を囲み、中規模の伽藍が4つ。遠くから望遠レンズをぼかしてみると、あたかもエムパイア・ステイト・ビルと似ている。
暁の寺(ワットアルン)
暁の寺(ワットアルン)

 ガイドの説明では18世紀のワットアルンは廃墟だったという。
 おりからのビルマとの戦闘に敗れたアユタヤ王朝のタクシン王によって再建され、さらに大伽藍はチャクリ王朝のラマ二世の命令で着工された。ラマ三世のときに一度完成するが、本堂が焼失したためラマ五世の治世下でまたもや再々建立されたという長い歴史をほこる。
 大伽藍のてっぺんまで登るとそこにはヒンズーのエラワンとインドラ像がある。これぞタイ仏教のエキスなのである。
 何故か私はそれを見たときに一度に疲れがでて、その場にしゃがみ込んだ。
 エメラルド寺院よりも黄金色ではないけれど、遠景だけは神々しいのが取り得である。

 その後、何回か、タイへ赴いたが、率直に言ってワットアルンは毎回訪問するほどの魅力は持っていない。もっともこれは主観的見解であって「何度見てもあれはいい」という人を何人も知っている。
 仕事の関係でそれからも十回近くはタイへ行っている。それゆえ少なくともバンコック市内なら地図は諳んじることが出来るけれど、考えてみれば、バンコック郊外へは、古都アユタヤと有名なリゾートのパタヤ・ビーチしか私は訪れたことがない。

「暁の寺」で何かに憑かれる

 三島はノーベル賞騒ぎを逃れるためにバンコックのエラワンホテルに長期に逗留し、間にはラオスへ出かけて、弟の案内で国王陛下に拝謁したり、またタイへ戻って徳岡孝夫とほぼ毎晩会って食事に出かけた(「五衰の人」、文春文庫)。
 それはそれとしてあのつまらないワットアルンだけが三島の「暁の寺」の舞台ではない。
 ジンジャンと本多が会見し、幼き姫がさっと豪華な座椅子と飛び降りて「日本へつれて帰って」と叫び出すのは離宮での出来事だった。
 三島がそのモデルとしたのは当時、共産主義討伐軍本部が置かれた「薔薇宮」である。
 いまは観光客に大々的に解放されているが、当時、内部の取材は軍幹部に頼んでも実現せず、三島が夫人と出かけてそとの垣根をかき分け盗み見て、しかし内部の模様を例によって三島が写真機のような緻密な精度で描いている。

 薔薇宮は「どれが入り口か分からぬほど多くの仏蘭西窓にかこまれていたが、その一つ一つが薔薇の木彫りを施した腰板の上部に、黄、青、紺の亀甲の色硝子を縦につらね、そのあいだにさらに近東風の五弁の薔薇形の紫硝子の小窓をはめ込んでいた」(「暁の寺」)。

三島研究論文集(全3巻)
三島研究論文集(全3巻)

 この薔薇宮はいま、観光客相手に象のショウ、民族舞踊、12ヘクタールもある庭園は絶好の行楽地と化して、俗悪そのもの。バンコックからバスで一時間近くかかるが行くとがっかりすることになるだろう。

 第一巻の「春の雪」の終幕近くで死んでゆく松枝清顕が「又会うぜ、きっと会う。滝の下で」と輪廻を爆薬のように仕掛けて、第二巻の「奔馬」では大三輪神社の滝で打たれていた飯沼勲が清顕と同じ場所にほくろを持っているのを、三島は本多に目撃させる。本多はそれで職をなげうってでも勲の弁護を引き受けたのだった。
 第三巻でバンコックにいる本多は、いきなりジンジャンから「私は日本人の生まれ変わり、日本へ連れて帰って」とまとわりつかれ閉口した。
 というのも第二巻の終わりで「次の」輪廻を目撃するのは「ずーと南の滝のした」であることが暗示されており、それは本多の行ってきたインドはアジェンダであるかも知れず、又バンコックであるかも知れない。三島の創作ノートでは「夢」と「転生」が「火薬のように装填され、各巻にはじけてゆく」とある。
 しかもジンジャンは本多と松枝清顕が広い邸の池でボート遊びをした日付も、飯沼勲が逮捕された日付も正確に記憶していた。
 だが彼女のいた離宮には「滝」がない。
 このころの本多は戦争の最中であるにもかかわらず宗教哲学の研究に没頭しており、インドでは仏教の淵源を辿ろうという野心を抱き、書斎では世界の歴史のなかで栄枯盛衰があった様々な宗教の神秘を学んでいる。そして本多は何故、飯沼勲があのような激しい神風思想に取り憑かれるのか、懸命に理解しようとするのだった。

哲学を小説にする難しさ

 このあたりから小説としても面白さは急激に稀薄となり「暁の寺」は思想書の趣を帯びてくるのである。たとえば以下のような記述。

 「思えば民族のもっとも純粋な要素には必ず血の臭いがし、野獣の影が射している」」民族の最も生々しい純粋な魂は地下に隠れ、折々の噴火にその凶暴な力を揮(ふる)って、ますます人の忌み怖れるところとなった」(暁の寺)。

 勲の考え方は「すべてを拒否すること、現実の日本や日本人をすらすべて拒絶し否定することのほか、この最も生きにくい生きかたのほかに、とどのつまりは誰かを殺して自刃することのほかに、真に「日本」とともに生きる道はない」とする激越なもので、神風連の武士たちの「純粋な過激さ」と酷似している。

 本多は既に清顕と勲の熱狂的な行き方を見てきた。今の彼は、戦争を目の当たりにしての虚無、宗教的無我の境地である。

「暁の寺」初版本
「暁の寺」初版本

 バンコックにはその苛烈さがなかった。
 「破局に対抗するに破局を以てし、再現もない頽落と破滅に処するに、さらに巨大、さらに全的な一瞬一瞬の滅亡を以てすること、そうた、刹那刹那の確実で法則的な知的滅却をしっかり心に保持して、なお不確実な未来の滅びに備えること、本多は唯識から学んだこの考えの、見もおののくような涼しさに酔った」
 その本多をしても、ジンジャンを日本に連れ帰るのは憚られた。なにしろ王家の姫君なのである。
 やがて戦争が終わり、17才になったジンジャンは日本に留学に来るが、幼き日に日本人だと言い張って本多にまとわりついた行為を一つとして覚えてはいなかった。そこでジンジャンの「輪廻」は俄に怪しいものになってしまうのだ。

遺跡で物乞いをする子供たち
遺跡で物乞いをする子供たち
 この時代、並行して三島は村松剛らがやっていた同人誌に「太陽と鐵」を連載していたが、このなかで、
 「……私は想像力の淵源が死にあることを発見した。日夜、想像力の親交を怖れて備えを固める必要もさることながら、私がその想像力、少年時代この方私を絶えず苦しめてきた想像力を逆用して、それを転化し、逆襲の武器に使おうと考え始めた」とつづりはじめる。
 「男は何故、壮烈な死によってだけ美と関わるのであろうか。日常性においては男は決して美に関わらないように注意深く社会的な監視が行われており、男の肉体美はただそれだけでは、無媒介の容体化と見なされて蔑まれ(中略)真の尊敬を獲得するにいたらない」
 などと死への疾走を始めたプロセスにいるわけだが、それはあくまで後智恵でしかなく、「暁の寺」執筆時点の三島の心境など霊媒使でも分からないだろう。

 ただこれだけは言えるのではないか。
 三島はバンコックをジンジャンの舞台としたはずなのに、あまりにインドの印象が強烈にすぎてタイの仏教と輪廻の考え方がすっかり薄味になってしまったことである。それはしかし、私もまたインドを先に見てしまってから「暁の寺」に行ったため全身が打ち震えるほどの感動を味わえなかったように、三島の精神と思索のなかでもタイ仏教はすっかり脇役に押しやられてしまったのである。「思想の小説化」はそれほど難しいのである。


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