憂国忌五十周年 祭文

 謹んで、三島由紀夫命、森田必勝命の御霊の御前に奏上し奉ります。
 日本の前途を憂え、建軍を阻む戦後憲法の改正を叫んで、その根底たるべき武士の魂を振起せしめんと、楯の会の両烈士が市ヶ谷台上で壮絶な最期を遂げられてから、本日ここに五十年の歳月が流れさりました。
 事件後、森田必勝氏を生んだ日本学生同盟の有志により三島由紀夫研究会が結成され、その熱誠と、義挙の志を慕う全国同胞の共感に支えられ、乃木神社による厳粛なる鎮魂帰幽の神事のもと、憂国忌は今日まで絶えることなく挙行されて参りました。
 その間、しかしながら、日本は、憲法の一行をも変えることあたわず、このままでは「或る経済大国として極東の一角に残る」ほかなしと危惧されたことが早くも現実化し、周辺諸国による直接間接の侵略、反日活動に対して、ただ歯噛みして甘受するのみの現状に至ったのであります。

 かたわら、世界的天才文学者三島由紀夫は、いみじくも、死を決することによってのみ見えてくる未来があると、畢生の大作『豊饒の海』の若きヒーロー、飯沼勲に託して、政治をはるかに越えた次元から明察を下されました。後代の私共、ひいては異国の讃仰者をも斉しく感奮せしめてやまないものは、「自刃の思想」に至る、この至純の魂であります。
 かかる魂より発して、三島先生、あなたは、『英霊の声』で神風特別攻撃隊員の亡魂を鎮め、翌年さらに二・二六事件の磯部一等主計の遺稿を精査して、玲瓏たる名作『憂国』にその至誠を結晶せしめて、もって国賊として葬られた忠烈諸士の名誉を復興されました。
 けだし、吉田松陰に極まる、国の英雄たちの累々たる屍、そこから羽ばたき出た白鳥の群れにささえられて大和島根はあり、見えずとも在るその英霊を祀ればこそ国は在り、祀らねば亡びるほかなきこと、必定だからであります。

 かくのごとく、三島先生は、遡っては敗戦と東京裁判に至る日本の凶運の闇黒部分を照射し、未来を見ては、日本と世界の諸事件の本質を神のごとくに見透しておられました。
 『癩王のテラス』は、カンボジアのクメール王国崩壊の予見でした。義挙の年、昭和四十五年から見ればソ連崩壊も天安門事件もほぼ二十年も先であったにもかかわらず、ハンガリー、チェコの悲劇から推して、「革命衝動」が無差別の破壊と殺戮に至る内面的必然性を指摘し、そもそもフランス革命の時代において人間性への最も深い洞察を下したのは「ヴォルテールではなくサド侯爵である」と喝破されました。
 しかして『文化防衛論』において、キング牧師の暗殺とヴェトナム戦争後遺症からして「民族と国家の分裂」は今後激化の一途をたどるであろう、ここから、敗戦以後、異民族の問題のほとんど皆無だった我が国においても、この分裂は朝鮮人問題や沖縄問題として深刻化するであろうと警告されました。
 さらには、これまた、横田めぐみさんの拉致より二十年も前に、「人質にされた日本人を平和的にしか救出しえない国家権力と、世論という手かせ足かせ」という限界を鋭く指摘し、救出を阻む日本内部の牢固たる壁を見透して、つとに根底から疑問を呈されたのであります。
 ここから、「剣の原理」を説いて、世にも人にもさきがけて大義に殉じられた行為に対して、時の政界の領袖たちは狂人扱いをしましたが、いま、日々、尖閣諸島で生じつつある目を覆うばかりの中国艦船の横暴を見るにつけても、彼らは言うべき如何なる言葉を持つでしょうか。

 まことに、先生の明察は余りに深く、その託宣は時に私共凡俗の理解をこえて神秘的と思われることさえありました。マルクス主義の「弁証法的進歩の概念」に抗しうるのは「日本文化の生命の連続性の本質」のみとして、「みやび」の極みたる天皇こそこの本質を照らしだす鏡であると卓見を示されましたが、国と民族の分裂が極まれば「みやび」が一転して「荒ぶる神」となることありと指摘されたごとき、それであります。果たせるかな、市ヶ谷台上の蹶起より四年目、昭和四十九年に、「靖国神社国家護持法」が国会で最終的に廃案とされるや、その時を画して日本の救いがたき精神的堕落は決定的となり、同時に、懼れ多くも昭和天皇御自身による「慷み」の御製の群詠が開始されたのでありました。エレミアの悲歌ならぬ昭和天皇の悲歌は、「憂国サイクル」ともお呼びすべく、以後十五年にもわたって連綿と続き、《やすらけき世を祈りしもいまだならずくやしくもあるかきざしみゆれど》との血涙共に下る事実上の辞世をもって終わるまで熄むことはなかったのであります。
 和御魂の顕れであらせられる天皇の、かくもあからさまなる荒御魂への変容に、私共国民は心底から恐怖し戦きましたが、思えばそれは、三島・森田両烈士の辞世にはとばしる憂憤が掻き立てた、見えざる波動との奇蹟的共振であるかに拝せられるのは、僻目でありましょうか。
 しかも、この御宸憂を受け継いだかのごとく、それから八年後、同じく「終戦記念日」を期し、かつそのように題して、皇后陛下美智子さまのお詠みになった《海陸のいづへを知らず姿なきあまたの御霊国護るらん》の、あの絶唱が、突如、凛乎として立ち昇ったのであります。
 かくして、戦慄的一作、『英霊の声』に描きだされた、月明の海上をさまよいつつ呪詛の声を上げる特攻戦士たちの怨霊は、世界史にも稀なる君民呼応によってさらに大いなる鎮もりを得たと拝しうるでありましょう。
 「帝王の御製の山頂から一卜つづきの裾野につらなることにより(中略)国の文化的連続性(は達成されるであろう)」との先生の予言は、ここに了々として実現を見たのであります。

 獄中で聖慮の下ることをひたすら夢見た磯部浅一に仮託して、『憂国』の著者三島由紀夫はこう問いました。「待つとは何か」と。
 市ヶ谷台上において楯の会隊長三島由紀夫は自衛隊員たちに総蹶起を促し、檄文でこう訴えました。「あと三十分、最後の三十分待とう」と。
 「今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ」との絶唱がこれに続きます。
 待つとは何か。
 最終的に応答は自衛隊からは、政体からは来ないであろう、ゆえにこそ、自刃をもって終わる「道義的革命」の意義はあるのだと明晰に見透しつつ、しかもなおこの最後の叫びに血涙を振り絞った烈士の真情を思って、私共は慟哭せざるをえません。

 しかし、武士道の日本は、血をもって終わらず、歌をもって終わる国であります。
 奇蹟の共振の波は続き、天皇皇后両陛下は硫黄島におもむき、栗林忠道中将の辞世「・・・矢弾尽き果て散るぞ悲しき」に返歌をささげられました。
 硫黄島玉砕からこの高貴なる応答まで五十年。その意義が、三島森田両烈士の自刃から本日只今の憂国忌までの五十年のそれと重なる時が到来しました。
 歴史的現実の時間においては見えずとも、霊性的次元においてこのことは皓々として明らかであり、しかも、合理と進歩の名のもとに歴史につまづいた人類史の二百数十年ののちに、いま、科学的真理とも不可分の、三島文学が「白昼の神秘」と呼ぶ未知世界が啓かれようとしております。
 この新たなる光の中で、共感の木霊は事件以後に生まれた若者たちの間からも続々と返りつつあり、もはやそれは世界的現象と化しつつあるのであります。
 コロナ禍がなければ、今日この日を待ち焦がれたそれらの人々が駆けつけて、この会堂は埋めつくされたことでしょう。
 これらすべての賛同者とともに、二柱の命の至誠を偲んで、ここに私たちは三島精神の継承を新たにお誓い申しあげるものであります。

 「あとに続くを信ず」
 三島さん、いまや、この信は日本のみならず、「美しい星」救済の夢となったのです。

令和二年十一月二十五日 憂国忌五十周年祭主 竹本忠雄

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