没後四十一年「憂国忌」の御報告

没後41年「憂国忌」に全国から三島ファンが参上
正気、崇高、そして使命を「三島由紀夫と通して」考えるイベント

没後41年「憂国忌」

 平成二十三年十一月二十五日、41年前の同日と同じ真っ青な秋空が玲瓏と広がった都下永田町の星陵会館におよそ五百名が参集して三島由紀夫追悼会「憂国忌」が行われた。
 以下はその模様である。


松本徹「三島由紀夫文学館」館長

 開会の辞を松本徹「三島由紀夫文学館」館長が述べた。

 松本館長の挨拶:東日本大震災、原発事故、異常な円高、米欧の財政危機、北アフリカ・中近東の騒乱、中国の異常な軍備拡張等々我々は歴史的な危機に一気に襲われているが、三島も予想しなかったこれらにどう対応したらよいか冷静な平常心を保つべきだ。
 人間が人間らしくあるためにはボーダーが必要である。
 科学が一旦開いたパンドラの箱は閉じられず、人類は原子力とつきあう宿命を覚悟すべきで、これらは常識に属することである。
 文化の危機に一身で立ち向かった三島の霊に頭を垂れ思いを巡らす、本夕はその一時になってほしい。

 黙祷ののち記念講演に移った。
 本年は都留文科大学教授の新保祐司氏が「三島由紀夫と崇高」のテーマで行った。三島というと「美」となるがこれを「崇高」をキーワードにし、「美」の天才の三島が徐々に「崇高」にひかれていったさまを語った。

 新保先生の記念講演要旨:英国の美学・哲学者エドマンド・バークは『崇高と美の観念の起源』において「美」と「崇高」を対比させて論じた。そこで「美」は均斉、秩序、快さ、人間の尺度にあったもの、「崇高」は雄大、悲劇的、畏怖、昂揚、人間を超えるものとされた。
 バークは古典主義美学が崩れだす近代初頭「崇高」を訴えた。  『フリードリヒ崇高のアリア』は世俗化におおわれている日本への警鐘として書いた。
 今年生誕150年の内村鑑三は『美と義』を著したが、この「義」」は「崇高」に通ずる。
 「美」と「義」のどちらを重んじるかによって文明も個人も決まる。
 ギリシアは「美」を、ユダヤは「義」を重んじた。人生の重大な問題だ。
 日本は「美」を愛する点でギリシアに近いが、危機の時代に「義」を重んじる人物が突然出る。これは日本の歴史のすぐれたところだ。三島もその顕現のひとつといっていいだろう。長い歴史のなかでのその噴出とみたい。


新保先生の記念講演

正気と崇高と

 この「義」は言葉を換えると「正気」(せいき)になる。正しい気である。
 保田與重郎に内村鑑三と岡倉天心を描いた『明治の精神』(昭和12年)がある。内村という「明治の異端」は沈積した「正気」のひとつの発現だ。
 三島の自決を彼の内部の問題として解釈するのは近代的な考え方だ。作品から内的ないろいろな情報を引き出す解釈病は三島がもっとも厭うものだ。そんな文学的解釈は意味がない。
 三島は「正気」に呼び出されたのだ。彼を歴史的な「正気」と見たらいい。特別な時に光を放つのが「正気」だ。そう見ることが三島への最大のオマージュ、頌になる。
 正気(しょうき)とは個人内部のこと、「正気」はその上にある天地正大のものだ。
 水戸藩の上屋敷跡地の隅田公園に大きな石碑が立っているが今や誰も振り返らない。これには幕末そこに幽閉されていた藤田東湖の『正気の歌』が刻まれている。
 奈良の物部氏、平安の和気清麻呂、江戸の四十七士に続いて幕末の吉田松陰があった。松陰は「正気」を「汝」と呼びかけている。「正気」は観念ではないのだ。この「汝」が松陰を呼びだした。この流れに三島もいた。
 私は平和な現実で言論をやっているが、福田恆存は「言論は虚しい」と言った。重力のままに現実は動いている。残酷なまでの必然性で動いている。
 これを打ち砕くのが」「狂」だ。内部の正気を上回る「正気」が絶対的な献身を求めてくる。個人的な正気はレベルが低く、重力のままの現実を打ち砕く力はない。例外的に垂直的なものが生まれる。三島も垂直的な存在だ。
 歴史の怖ろしさ、歴史への畏怖を大切にしたい。
 松下村塾の塾生約40名のうち、明治まで生き残ったのは半分だ。その教育をすぐれたものというような俗論的理想論ではダメだ。「学ぶべきもの」とは恥ずかしくて言えない。その苛酷な部分を消毒してしまってはいけない。」「狂」はほんとうの変革に結びつく。松陰の」狂」は三島に通じる。
 イタリアから帰国して、すぐ《朱雀家の滅亡》を観に行った。死の二年前の作品で「静かなる狂人」が登場する。
「ある美しい帝国がほろんだ」という科白に感銘を受けた。戯曲で読むのと違って三島の肉声を聞くようでその烈しさに震えた。
 東日本大震災後はじめてのこの憂国忌で、大震災のモラル的意味を深く捉えたい。
 明治維新後の文明開化、敗戦、戦後復興、高度成長を経た近代日本を、この大震災で問い直さなければならない。三島の根源的な批判はその意味をますます持ってきている。
 日本の近代文学は人間解放の文学だったが三島はしだいに文学的ではない言葉を発するようになった。それは「正気」に呼び出された使徒の生き方だといえる。
 サンケイ新聞の《果たし得ていない約束》の文章はじつに素朴で、ストレートだ。天才作家らしくない純粋で素直な文だ。三島は「美」の天才から「義」の使徒になっていったのだろう。

道義的革命とは?

 天才は才能のままやりたいことをやる。使徒は「已むを得ざるなり」にぶつかり、上の「正気」から呼びかけられてやる。好きなことがやれる束縛がない状態を幸せ、幸福という考えはよくない。
 「已むを得ざるなり」にぶつかり、使命に取り組むことこそが逆説的に幸せだと思う。福本日南は神風連を「清教徒的使徒」と呼んだ。当時も理解しがたい事件だったが彼等は何かに突き動かされる使徒的な存在だったのだ。
 三島が磯部浅一を取り上げた『「道義的 革命」の論理──磯部一等主計の遺書について』によると浅一は国土、人民より天地正大の気が最も根本的で大切だと言っていた。二・二六事件は国土、人民をまもるものではなく神州の「正気」を問題にしていた。
 保田が言っていたように日本には「正気」が沈積している。ここに日本の希望がある。ある時ある人間を通じ「正気」が発せられる。この「正気」が日本にあることは大いなる希望だ。
 内村は明治27年『大文学論』を書いた。日本文学は小文学の大繁栄だ。なぜ大文学が出ないのか。時間をかけて大文学をやるべきだった。これを深く反省しなければいけない。昭和30年代がなつかしいなんて最低だ。それでは重力的に動いている日本の脱落傾向を止められない。志賀直哉、夏目漱石を振り返っていてはダメだ。少なくとも明治の精神、幕末維新に戻らないとダメだ。文学も「大文学論」を展開しなければいけない。
 「正気」はそうじゃない人の方を呼ぶ。義だ、義だという人は呼ばない。美だ、美だという人に「義」の使徒としての役割をふる。
 そこに「義」に引きずられた三島の悲劇性が起ちあがる。それは40年経っても我々を揺さぶる。生々しい畏れをもって三島を思い出すことが礼儀である。

 次に追悼挨拶を石平氏が行った。
 石平氏のスピーチ要旨:憂国忌には35回から参加している。日本に留学して通った神戸大学の図書館で、三島事件関連の本を読み衝撃を受けた。
 自決したこと自体衝撃的だったが、日本文学界に君臨して近い将来ノーベル賞を獲ろうという人生の絶頂期に、手にした富や栄光のすべてを捨てて大義のために自決したことに強い衝撃をうけた。
 中国の英雄、豪傑は義の為に起っても栄光や富を捨てるようなことはしない。
 中国は共産主義革命をしたが、その本質は〈インターナショナル〉の歌詞の出だし「起て飢えたるものよ」に出ている。腹いっぱいなら起つ必要はないというレベルの低い即物的な思想なのだ。
 この対極にある資本主義は「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない」即物的、物欲的な思想だ。
 20世紀を席巻した二つの思想だが、この時代に生きた三島は自ら命を絶つことによりこれらにそれらに「NOT!」を突きつけ超越した。そこに三島が起った意味がある。共産主義を否定していた三島だが、一番憂えていたのは資本主義に毒されて日本精神、天地正大の気を失った日本である。
 三島は手に入ったすべてを捨て命を絶って20世紀を超越する哲学を提起した。
 資本主義はダメになり、死にかけている。そこには何が生きているのか。三島由紀夫が生きている。その背後にあるのは日本の精神、日本の天地正大の気だ。
 三島が命を絶って守ろうとした日本の精神は新しい文明を築き新しい哲学、ビジョンを提起するものだ。これからもみなさんと一緒に「三島」を勉強していきたい。

 三番目にヘンリー・スコットストークス氏が壇上に登った。


ヘンリー・スコットストークス氏

 本日は私にとり十年ぶりの憂国忌だ。ここに来るべきだという気持ちになったのだ。私は外国人記者としてただひとり三島の自衛隊入隊を同行取材した。三島と交流したのはロンドン・タイムズの東京支局長時代だった。
 私は三島を「YUKIO-SAN」と呼んでいたが一番記憶に残っているのは銀座にある私のオフィスに三島が駆けこんできたことだ。楯の会の富士の裾野での訓練について記事を書いた。その記事が掲載されると三島は飛んで来て「君が私のことを一番真剣に書いてくれた」と言った。三島は昭和45年10月4日付の短い英文の手紙を私にくれた。長編の小説を書き終えたこと、これでこの世が終わりだと思えると書いてあった。
 私から三島に連絡をして銀座のホテルで会い、何か出来ることはないかと訊いた。
 その直後に何が起こるか知る由もなかったが、まっすぐに生き行動する三島が水平線の向こうに沈んでしまう、何かおそろしいことが起こりそうな気がした。ここにいる皆さんと共に分ちあいたいのは、三島は思ったことを実行するために犠牲になることを厭わない、真剣な生き方をした人だったということだ。

 チャンネル桜の水島総氏が最後を締めくくった。
 大学3年生の21歳のときに遭遇した三島事件に思わされたのは「孤独」ということだった。バルコニーから発する三島の声はまわりの騒音や野次でほとんど聞きとれなかった。
 今月、尖閣諸島に出掛けたが、東の海に孤立しているこの島々はシナ大陸をにらむ「正気」を発していた。古代の防人の気持ちを思った。そうすると「檄文」の次の言葉が思い出された。
 ――今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。
  我々を含めた戦後日本の総体を否定しなければ日本の未来はないだろう。


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