引き続き水島総桜チャンネル社長の司会で、識者によるパネル・ディスカッションが行われた。
井尻千男拓殖大学日本研究所長は、三島の自決直前、日経新聞記者として、昭和46年元旦の一ページ全面を "葉隠"と"陽明学" をテーマに埋める企画を樹て、三島に取材を申し込んでいた。
21歳の時に三島由紀夫論を物しそれが村松剛の目に留5り村松家に出入りしていた井尻は、この件で三島に初めて電話をしたら、三島は、いま猛烈に忙しい、君の言ったことは忘れるかもしれないが、11月25日にもう一度言ってくれと、力強い声で対応したという。
井尻はその当日、三島に電話をしてから会う算段をしていたが、神保町から大手町の会社に向かうタクシーの中で、三島が自決し、果てたことを知った。 替わりの企画を何にしたか今だに思い出せない衝撃だったと語った。
評論家の井川一久は三島自決を朝日新聞の記者として海外で聞いた。
帰国して朝日ジャーナル編集部に配属されると、同誌で唯一の三島を肯定的にとりあげた"三島由紀夫は甦るか"という特集を組み、保田與重郎、阿部勉、伊藤好雄などに取材した。 保田は10時間以上酒を酌みながら取材に応じ、三島君はいい、何もかもいい、と語ったという。
文芸評論家の山崎行太郎は、自分はそもそも大江・柄谷が好きで、三島は嫌いだったと聴衆を挑発する説き起こしで語り始めた。しかし三島の自決で三島文学ではなく、三島自体にすこぶる興味を持ち、自決に至る過程を「小説三島由紀夫事件」に仕上げた。 それまで哲学だと思っていたが三島の自決は哲学より文学だと気づかせてくれたと、自己の内心の変遷を語った。
田中英道は、三島の自決で小説は死んだ、文学というジャンルは消えたと悟り、美術論に移ったと語った。 荻野貞樹は、『美徳のよろめき』を三島の代表作に挙げた。
大学時代に評論「埴谷雄高と三島由紀夫」で文学賞を得た富岡幸一郎は、三島の自決した時は中学一年で、高校時代憂国忌の運営に関わり、来賓の林房雄からパンフレットにサインしてもらったと思い出を語った。
藤井厳喜は、来栖弘臣は三島事件に批判的だったが、八年後週刊誌上で「日本には有事法制がないので、緊急時には自衛隊は"超法規的行動"をとらざるをえない」と発言して"腹を切った"と述べた。
最後に壇上に登った松本徹は、三島が作家人生の折り返し点で書いた『薔薇と海賊』は三島のそれまでのものと、それ以後のもの、いろいろなものが凝縮されている、死ぬことは甦ることに繋がる、文化は甦ると結んだ。
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