没後三十六年追悼会「憂国忌」の御報告

戯曲『薔薇と海賊』の予告公演

入り口に両烈士。超満員の会場。

  平成十八年十一月二十五日の三島由紀夫氏没後36年追悼会『憂国忌』は、映画『憂国』に使われた、ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」の荘厳に響く楽曲が、寒気の帷を揺らす中、豊島公会堂に千名近い参会者を迎えて行われた。

 自決直前の昭和45年11月、都内で開催された『三島由紀夫展』で、三島は、自らの活動を "書物の河" 、"舞台の河" 、"肉体の河" 、行動の河 の四つの河に分けて回顧した。
今年の『憂国忌』は、"舞台の河"をとりあげ、趣向が凝らされた。
村松英子(村松剛の実妹)、大出俊、伊藤高(伊藤雄之助の子息)、若柳汎之丞が、戯曲『薔薇と海賊』のいくつかのシーンを台本を手に読み合わせる形式で演じた。
当日が出演者の初顔合わせということだったが、壇上での読み合わせが初とは思えない、各出演者のマチエール(技能)の高さに驚いた。

 三島戯曲で再演されたのは、生前では『鹿鳴館』ぐらいだったのに、三島は昭和33年文学座初演の『薔薇と海賊』の再演を冀い、周囲の訝る中、昭和45年10月から11月に掛けて、自決の二日前まで、初演と同じ松浦竹夫の演出で、劇団浪漫劇場が上演した。
稽古のときも本演でも、その場面に差し掛かると三島が薄い色のサングラスをずらして、時に滂沱と涙を流していたという、第二幕の幕切れのシーンも壇上で読み合わされた。

熱演の四人(左から伊藤、大出、村松、若柳の各氏)村松えり(女優)さんも駆けつけました。
左から伊藤、大出、村松、若柳の各氏。村松えり(女優)さんも駆けつけました。

 題名は当初、「お月さまの庭」というようなものだったが、最終的に理想をあらわす"薔薇"と、俗物をあらわす"海賊"を併置するタイトルとなったという。 三島はこの戯曲の着想をニュー・ヨークで観劇した「眠れる森の美女」から得たそうだが、中身はピーターパンを想い起こさせると村松英子は語る。 ピーターパンは自分が子供のままの純真な心を持ち続けるために、ネバーランドで成長した子供たちを平気で殺す残虐性を持つ存在である。 この戯曲からピーターパンを想起した村松の感性は鋭い。

 三島の死後、その翌年二月には、三島たっての希望で日夏耿之介訳の台本でヨカナーンの生首が銀盆に載せられて登場する『サロメ』が上演された。 三島は村松に、十二歳の時に小遣いで初めて買った本が「サロメ」だったと語ったという。劇団浪曼劇場公演で主役のサロメを演じたのは森秋子だった。 全裸になるサロメ役のオーディションを、当時の劇団所属の女優たちは逃げ回ったそうである。
三島は上演パンフレットに「東洋の神秘と西洋の神秘との混合体である古拙な美にあふれたサロメの肢体が、身悶えてほしいのである」と遺し、 幼時から思い出深い、血の滴る生首が登場するこの作品の自決直後の上演を仕組んで逝った。
 大出俊は三島の自決した日、京都で松山善三監督の映画を撮っていたそうで、当日は午後の撮影が突然中止になり、翌日も、その翌日も、理由無く中止され、再開したときに松山監督はげっそりして現れたそうで、そのことが忘れられない記憶として残っていると語った。


檄文朗読につづいてシンポジウム

 第二部は、『檄文』が五人の学生のリレー形式で、ある者は朗々と、ある者は溌剌と、ある者は力強く読み上げた。自衛隊市ヶ谷駐屯地に撒かれた『檄文』はコピー機を使わないすべて手書きのものであった。
三島のバルコニーからの演説は、拡声器を使わない肉声であった。
自決に用いたのは火器でなく日本刀だった。 近代文明の産み出した利器への三島の最後の拒絶は、つねに神慮をうかがって行動した神風連に繋がる。


檄文朗読の若者達
檄文朗読の若者達

 引き続き水島総桜チャンネル社長の司会で、識者によるパネル・ディスカッションが行われた。
井尻千男拓殖大学日本研究所長は、三島の自決直前、日経新聞記者として、昭和46年元旦の一ページ全面を "葉隠"と"陽明学" をテーマに埋める企画を樹て、三島に取材を申し込んでいた。
21歳の時に三島由紀夫論を物しそれが村松剛の目に留5り村松家に出入りしていた井尻は、この件で三島に初めて電話をしたら、三島は、いま猛烈に忙しい、君の言ったことは忘れるかもしれないが、11月25日にもう一度言ってくれと、力強い声で対応したという。
井尻はその当日、三島に電話をしてから会う算段をしていたが、神保町から大手町の会社に向かうタクシーの中で、三島が自決し、果てたことを知った。 替わりの企画を何にしたか今だに思い出せない衝撃だったと語った。

 評論家の井川一久は三島自決を朝日新聞の記者として海外で聞いた。
帰国して朝日ジャーナル編集部に配属されると、同誌で唯一の三島を肯定的にとりあげた"三島由紀夫は甦るか"という特集を組み、保田與重郎、阿部勉、伊藤好雄などに取材した。 保田は10時間以上酒を酌みながら取材に応じ、三島君はいい、何もかもいい、と語ったという。

 文芸評論家の山崎行太郎は、自分はそもそも大江・柄谷が好きで、三島は嫌いだったと聴衆を挑発する説き起こしで語り始めた。しかし三島の自決で三島文学ではなく、三島自体にすこぶる興味を持ち、自決に至る過程を「小説三島由紀夫事件」に仕上げた。 それまで哲学だと思っていたが三島の自決は哲学より文学だと気づかせてくれたと、自己の内心の変遷を語った。

 田中英道は、三島の自決で小説は死んだ、文学というジャンルは消えたと悟り、美術論に移ったと語った。 荻野貞樹は、『美徳のよろめき』を三島の代表作に挙げた。

 大学時代に評論「埴谷雄高と三島由紀夫」で文学賞を得た富岡幸一郎は、三島の自決した時は中学一年で、高校時代憂国忌の運営に関わり、来賓の林房雄からパンフレットにサインしてもらったと思い出を語った。

 藤井厳喜は、来栖弘臣は三島事件に批判的だったが、八年後週刊誌上で「日本には有事法制がないので、緊急時には自衛隊は"超法規的行動"をとらざるをえない」と発言して"腹を切った"と述べた。

 最後に壇上に登った松本徹は、三島が作家人生の折り返し点で書いた『薔薇と海賊』は三島のそれまでのものと、それ以後のもの、いろいろなものが凝縮されている、死ぬことは甦ることに繋がる、文化は甦ると結んだ。


水島総司会のシンポジウム
水島総司会のシンポジウム

 たまたま同じ日に書店店頭に並んだ『WiLL』1月号に、堤堯は"三島由紀夫「僕を殺す唯一の男」"の中で、三島が川端のノーベル賞受賞に寄せて書いた、「長寿の藝術の花を − 川端氏の受賞によせて」を丹念に分析し、川端康成と晩年の三島の確執に切り込んで、衝撃の事実をスリリングに開陳している。 三島は川端本人にしか判らない恐ろしいことごとをこの一文に仕込んだ。
三島の川端への賛辞には、特殊メガネを掛けないと見えない赤外線のように、身内にしか明かさなかった三島の川端への思いと、いくつかの隠れた事実が放射されていることが判る。

 夜闇の雲間からさっと射し込む月の光で事物が顕証になるように、秘められた事実が掘り起こされて、ますます魅力を増す三島である。
 まさに"死後も成長し続ける作家"である。

 豊島公会堂は、三島自決直後の昭和45年12月11日に一万名以上の参列者を集めた追悼の夕べ" と、昭和46年11月25日に第一回『憂国忌』が開催された場所である。 同じ建物である。
この建物は、その間、三島が手挟む太刀の鞘鳴りに耐えていたように、粛然と我々を待っていたかのようだった。(文中敬称略)


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