追悼会 憂国忌の御報告

厳粛に三島氏追悼会「憂国忌」が開催され
新たな決意を参加者は誓った


 平成14年11月25日、文豪・三島由紀夫氏を追悼する追悼会 憂国忌は折からの冷たい雨にも関わらず、今年も会場の九段会館を満杯にして厳粛な雰囲気の中、粛々と執り行われた。総合司会は「月刊日本」主幹の南丘喜八郎氏。先ず最初に全員で一分間の黙祷、ついで「開会の辞」を発起人を代表して評論家の井尻千男氏が登壇され、主として石原慎太郎氏の肉体論による三島批判を批判された。
 つづいて献花の儀に移り、井尻氏のあと講師の堤堯氏、松本道弘(英語道の達人)氏、工藤雪枝女史(「特攻のレクレイム」)、松本徹(三島研究の第一人者)氏、藤井巌喜(評論家)氏、中村彰彦(直木賞作家)氏、山口基(年譜作成者)氏らが三島氏遺影に菊の花を捧げた。そのあと会場の参加者を代表して佐野良子さんが献花、一同が低頭した。
 編集者からみた三島由紀夫」と題しての講演は元「文芸春秋」編集長の堤堯(つつみ・ぎょう)氏。堤さんは「諸君」「週刊文春」「文芸春秋」三誌の名編集者を歴任したことでも有名。三島との出会いから自決までの、実に親密を極めた交友を通じながら数々の秘話を語った。週刊文春時代に東京オリンピックを通じて三島氏担当となった堤氏は爾後、様々な企画を持ちかけられ文春の多くのページを三島由紀夫で飾った経験の持ち主でもあり、その回想を現在「編集会議」に連載中。とくに「あの事件は三島主導ではなく森田さんが主導したのでは?」と事後解釈への疑念を強く投げかけられた。堤氏は偶然、森田必勝氏とも、友人の出版会社で森田がアルバイトとしていたときから知っていて何回も酒を飲みかわしたという。


堤堯氏
熱演を続ける堤堯(元「文芸春秋」編集長)氏は、森田烈士とも酒を飲んだと数度と秘話を披露した。「三島さんからあるとき「おまえも楯の会へ入れ」と誘れました」

井尻千男 工藤雪枝さん
憂国忌の開会の辞は井尻千男・拓殖大学教授。「石原慎太郎氏の肉体論は、少しおかしい」
「特攻のレクレイム」を書いたジャーナリストの工藤雪枝さん。「特攻の精神と三島先生の精神に通底するのは憂国の情念です」

花田紀凱氏

中村彰彦氏
今年の講師の堤堯氏に毎号連載を頼んだのが「編集会議」編集長の花田紀凱(元「週刊文春」編集長)で、その経緯を語った。 「烈士と呼ばれる男」で森田必勝を小説化した直木賞作家の中村彰彦氏は「堤さんは嘗ての上司、こんな話を文春時代に聞いておくべきでした」

 「中村彰彦さんの「烈士と呼ばれる男」にでてくる納沙布岬での行動(貝殻島へ泳いで上陸し、日本国旗を立てて日本国民に覚醒を促す行動を計画、途中警戒中の公安に阻止された)の挫折が森田さんのトローマをなっており、それが三島さんを最後に引っ張ったのではないか」。
 事件の五ヶ月ほど前に偶然電車で森田を見かけ、「やぁ」と声をかけようとしたが沈思黙考中の森田には異様な雰囲気があり、近づきがたく。また三島さんからは、ある日、「おまえも楯の会へ入れ」と誘われた秘話なども堤氏は次々と披露した。「東大を動物園にせよ」という談話も堤氏の企画から生まれ、また12月7日には文春本誌で坂本二郎氏と三島さんとの対談の予定を入れていた。無論、事件の後のことで実現するはずは無かったが。。。(尚、堤氏の講演要旨は「月刊日本」に収録される予定)。
 かくして第一部は三島研究会代表幹事の石大三郎氏の「閉会の辞」をもって終了した。憂国忌第二部懇親会は、会場を隣へ移動、最初に献杯の挨拶を藤井巌喜氏、つづいて三島さんに直接ボディビルを指導した玉利斉氏が駆け付けられ、練習時代の三島さんの努力のさまをいきいきと語られた。会場には演劇関係者、出版関係者、編集者の顔も多く見られ、また「諸君」歴代編集長らが珍しく顔を揃えた。他に工藤雪枝、中村彰彦氏らが挨拶。また「森田必勝遺稿集」を三十三年ぶりに複刻した版元・日新報道の遠藤留治社長、「編集会議」編集長の花田紀凱氏(元「週刊文春」編集長)らも登壇し、それぞれの苦労話を語った。 会場にはあの事件当時、学生だった世代を中心に、当時生まれていなかった若者達が全国から集まり、決意を新たにした。ことしもまた若い女性参加者が目立った。
撮影・村田倫也氏

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