第2回憂国忌
昭和46年11月25日
憂国忌上舞台から三島由紀夫が参会者に語りかける
憂国忌上舞台から三島由紀夫が参会者に語りかける。

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影が薄れゆく日本 清水文雄 元学習院教授

 あの事はこの世になかったやうな顔をして、人々はつぎつぎと新しい事件を道ひ求めてやまない。その間にも、三島君が深憂した「癌症状」は着々と進行し、「失ったら二度と取り返しのつかぬ日本」の影が次第に薄くなってゆくことを顧みようともしない。三島君の遺リ場のない怒リの意味が、重くのしかかってくるやうに感ずる日々である。

開場を待ち人々の列は千鳥ヵ淵へと続いた
憂国忌上舞台から三島由紀夫が参会者に語りかける。
開場を待ち人々の列は千鳥ヵ淵へと続いた。開場内は黛氏作曲の「昭和天平楽」が流れる。
写真は九段会館で開催された第2回憂国忌です。

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三島由紀夫以前覚え書き 日本銀行 酒井 洋

 今から三十五年近くも昔のことになろう、私が彼に初めて会ったのは…。もう少し厳密に言うなら、会う前に、今うこと自体についての当否の議論があった。その討論を経たのち、私は彼に会いに行ったのだ。
 当時も目白にあつた学習院の本院は、今よりも心持ち広いキャンパスに、中等科五学年と高等科三学年とが学ぶ場所であった。一年の平均学生数は七十名前後だったかと思う。
 そのとき、私は高等科二年で、輔仁会(校友会)文芸部の委員をしていた。
 満年齢では二十歳にみたない青二才であったが、当人はむろん、いつぱしのオトナのつもリだった。
 文芸部は輔仁会雑誌の編集を仕事とする。編集といっても、そこは未熟な学生の集りである。投稿を勧誘し、集まった原稿を現実にはあまり”没”にできないため、適当に配列して印刷屋に渡すだけである。委員三人のほか、指導教官ともいうべき教師が文芸部長をしていて、原稿は委員か部長の手元に集まることになっていた。
 豊川昇という、哲学を専功して、リッケルト「文化科学と自然科学」の翻訳もある先生が部長だうた。その先生の手もとに、中学一年生から原稿が届いたが、なかなかすくれた才能を感じさせる詩だ。ただし、かなリ濃厚な内容で、先生は迷っているという。普通では中学一年生にはできそうもない描写もあるから、盗作の疑いがあるし、万一、自作だとすると、本人がたいへんな”不良”だという心配もあることが心配のタネだった。
 どうやら若げの至リで、「そんなことは本人に会ってみれぱわかる」というようなことを、私が強硬に主張したらしい。その投稿者である平岡公厳君に会いに行く役目は、私が引き受けることになった。
 結果として、それは楽しい役割となった。とにかく、私はトクトクとして「だいじようぶです。文才があリすざるためですよ」というようなことを豊川先生に報告をした。学習院輔仁会雑誌が平岡公威という天才の作品をそれ以後毎号掲載したことはいうまでもなかった。
 激しく長い戦争が続いた。そして、終わった。
 新進作家の三島由紀夫とは、平岡君のことであり、しかも、大蔵省に入省していることを知ったある日、私は彼に電話をしてみた。
 如才ない応対で彼は、先輩である私のことを忘れているものですか、というようなことを言った。私は、勤務先である日本銀行の文芸部主催の講演会に、彼に講師として来てもらうことに成功した。
 日銀には「戦艦大和の最期」を書いた吉田満がいた。講演が終わったあと、二人はお茶を飲みに出て行った。 「戦艦大和…」の第何版目かの帯に三島由紀夫が推薦の詞を書いているのはそんな経緯もあるであろう。
 とにかく、そのころの三島由紀夫は、まだ短編しか発表しておらず、「仮面の告白」「禁色」「金閣寺」は世に出ていなかったころなのであった。
 同じ学習院の文芸部に籍を置いたことがあリながら、私は東大経済学部から日銀に入行し、彼は東大法学部から大蔵官僚としてエリートの道を歩んでいた。
 そうした外見上の類似もつかのまであった。私は、彼の不肖の?先輩にすぎなかった。
 記憶をたどっていくと、いつか東宮御所で学習院の縦の会合(むろん「楯の会」ではない)で会ったのが最後の出会いであった。ただ、私のほうでは、紛争さなかの東大へ乗リこんで弁舌をふるった三島由紀夫の行動と思想に共感と反発とを党えたものである。
 それにしても、二年ほど前の”三島事件”は、私にはショックであった。あれから半年ほどは、何かにつけ、一日に一度は彼のことを思い起こしたものである。
 独特な、不敵な笑みを浮かべて現われて来ると「ぼくは、ほんとうは死んじやあいませんよ」と言いながら、高らかに笑って消えていくような気が、今でも、ときどきするのである。

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居合い

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三島由紀夫と知的運命 長谷川 泉 文芸評論家

 近代の問いなおしは、日本人のすべてにとって痛切な問題である。戦後が問題にされる場合に、その起点は、日本の近代の構造そのものであるから、近代そのものへの焦点のきめかたが問題となる。日本人の知的運命は、そのことと深くかかわっている。
 三島由紀夫の精神構造のなかには、日本の戦後を否定する強靱な意志があった。今の私たち誰も、日本の戦後の精神風土のなかに生きている。そのなかにあって、戦後そのものを否定することは、なまなかな変革意識などではかなわぬことである。ゆえに、三島由紀夫の自裁は、歴史をゆるがす大きな意義を持った。三島由紀夫の才能を、新人才華として戦後の文壇におし出す役割をはたした川端康成にも、日本の戦後を否定する意志があった。そして、そのことが川端康戌の自裁にもつながったのである。
 戦後の起点が、遠く見はるかせぱ、日本の近代であったという冷厳な事実に目を蔽ってしまってはならない。問題意識は、明確にこのことを指向させる。一見、きらびやかな近代の衣裳をまとったかのようにも見える三島由紀夫の作品系譜の解析からは、近代への呪咀が読みとられなけれぱならない。
 神話は、それを信ずる信じないは別として、虚妄に彩られる場合がある。
 虚妄が剥離した場合に、それは強靱な光彩を現ずる。三島神話を虚妄にしてはならない。三島由紀夫の知的運命は三島由紀夫の精神構造に忠誠であったことであった。このことはまた、日本人の知的運命をトすることでもあったのである。

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故 黛敏郎氏


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