第一部シンポジウム(没後37周年追悼会「憂国忌」の概略記録)
「あれは楯の会事件、森田必勝主導ではなかったのか」


パネリスト堤 堯(元文藝春秋編集長)、中村彰彦(直木賞作家)、宮崎正弘(評論家)
司 会花田紀凱(WILL編集長)

第一部シンポジウム

 「憂国忌」は三島森田両烈士に黙祷の後、文藝評論家の富岡幸一郎氏が「開会の辞」、総合司会は政治学者の藤井厳喜氏がつとめた。
第一部のシンポジウム「あれは楯の会事件、森田必勝主導ではなかったのか」の幕が切って落とされ、壇上には予告された堤堯、中村彰彦、司会の花田紀凱の各氏だけでなく、司会者の強引な指名に負けて、憂国忌の黒子に徹してきた宮崎正弘氏も登壇しました。

なぜ連載「僕を殺すたった一人の男」が始まったのか

花田紀凱 私は、文芸春秋時代の上司である堤堯さんと、今日、会場におられる田中健五元文春社長(憂国忌発起人のひとりでもある)をもっとも尊敬しています。
 記憶力抜群で面白い堤さんには、私が編集長をしているWILLに連載中の「ある編集者のオデッセイ」を、堤さんが死ぬか、私が死ぬか、どっちが早いか分かりませんが、どちらかが死ぬまで続けるつもりでやってもらっています。
 これは私が関わっていた雑誌編集会議からの連載で、まだ5年程度ですが、途中から三島由紀夫論に入って、すでに24回。それだけで原稿用紙で800枚の分量です。

 中村彰彦さんには、かれの週刊文春編集部時代に大野晋のタミル語起源説を完膚なきまでに論破してもらいました。
 それでは堤さんに口火を切って貰います。
 まず簡単に堤さんと三島由紀夫との出逢いはどういう場面からですか?

堤 堯 私は1961年文芸春秋に入社して、最初に配属されたのがオール読物の編集部。そこの女性社員から三島邸に原稿取りに行くよう云われて、三島と出合ったのが最初だった。
 会うなり三島さんから、「胸囲は?」と訊かれた。 女性社員が三島に、「ゴリラみたいで新入社員歓迎会で「東京ドドンパ娘」を裸踊りした男が行く」と吹き込んでいて、三島夫人も一緒になって、どんな男だろうと僕のことを待っていた。
 三島さんとは1964年の東京オリンピックを一緒に観に行った。池島信平社長の企画・立案で始まった「あの人と一週間」では、三島さんに一週間密着もした。山中湖の三島由紀夫文学館にある書斎は整然としているが、実際の書斎のスチールデスクの上は本の山で雑然としていた。正面には母子像があった。オリンピックの聖火の最終ランナーは早稲田大学の選手だった坂井君で、それを観た三島さんは、選手の胸の日の丸はきれいだ、金を払ってもやりたいと言っていた。

花田 つぎに作家の中村彰彦さん。中村さんは、森田必勝をモデルに烈士と呼ばれる男 森田必勝の物語を雑誌諸君!に連載され、単行本になさいました。いま、文春文庫版も絶版のようですが、いずれ復刻を待ちたい。ところで中村さん、この本を書かれる切っ掛けとは何でしたか? 本のあとがきでは「さて、これからどうやって生きていこうかと私が悩んでいるときに森田氏は、さて、どうやって死ぬかという命題を考えていた云々とありますね?

中村彰彦 私は東北大の国文に入りましたが、卒論を書く段になってそのための古典を買う金がなくて、自分の書棚を見て、三島さんを取り上げて100枚、実際には120枚書きましたが、卒論に仕立てました。
 そこで三島初の長編禁色を取り上げたのですが、わが卒論は三島由紀夫論序章といった程度で終わっているんです。
それから大学院に行かないで、文芸春秋に入社し、消化不良の感を覚えていましたが、日本学生同盟OBだった宮崎正弘氏は週刊誌時代に取材を通じて知り合い、森田必勝の後ろ姿を追いかけるきっかけをつかんだ。

花田 お二人の背景が漠然と掴めました。
 ここで皆さん。司会者の特権で、もう一人、突然の指名ですが、パネリストに登壇頂くことにしたい。それはこの憂国忌の裏方をやっていて、表にでることを極端に嫌がってきた人、評論家の宮崎正弘さんです。
 このシンポジウムは森田必勝と三島由紀夫の関係を論ずるわけですから、ここはやっぱり森田遺稿集を編纂され、現場の生き証人でもある宮崎さんからもお話を聞いた方が良いと思います。どこにいますか、宮崎さん? 宮崎さんは、三島由紀夫三部作も書かれた。最初の作品三島由紀夫以後のときは、十年前でしたが、わたしも出版記念会に行きましたっけ。
 いまの堤さん、中村さんのコメントを引き続いて、その経緯の続きを話してください。

宮崎正弘 私は、三島さんとは3回しか会っていません。しかし森田必勝さんとは3年間一緒に暮らしました。
 檄文にあるように「われわれは四年待った、最後の一年は熱烈に待った」。
しかし死ぬまでの「最後の一年」は一緒ではなかった。かれは楯の会専従になったものですから。そのうえ、大学入学以前の森田のことはなにも知らなかったのです。中村彰彦氏に「この人の伝記を書かないか」と四日市に誘うまでは。

森田青年は四日市海星高校で生徒会長だった

花田 では森田さんの年譜を見ながら、いわゆる「三島事件」へと至る過程を振り返りましょう。
 会場の皆さんは、お手もと記念冊子の4ページをご覧ください。森田必勝さんの略年譜を掲げております。
 森田必勝(まさかつ)氏は、昭和二十年生まれで、地元四日市の海星(かいせい)高校の卒業。そういえば、この高校は野球が強い学校ですね。生徒会長を二期つとめ、当時は河野一郎の門をたたくなど行動派でした。

中村 森田必勝氏の高校時代は面白い。
 おとなしかった森田が、思春期になると急に活動的なる。高一の夏休みの九州への無銭旅行や、高三のときに河野一郎邸に押し掛けたりもする。
 四日市に生まれ、父母を早く失くし、自分の面倒を見てくれていた兄の結婚で、群馬の伯母に預けられ、又すぐに兄宅に戻される。戻ったら離れに住む。
 まもなく母代わりに慕っていた姉が嫁いで出て行き、寡婦になった群馬の伯母が他に頼る場所がなく一緒に住もうということになったのです。
 そんな複雑な家庭環境からでしょうか、昭和35年(森田15歳)、森田家から五分もかからない距離に引っ越してきた上田家の家長は、夏はパンツ一枚で胸毛を見せる豪放磊落な性格で、森田はその家長に父親像を重ねました。 森田の初恋の相手とも交際をはじめる。
 それを初恋の相手の母親から友達でいてほしいと線を引かれるんですね。
 森田は第二か第三の父親像を河野一郎に重ね、そしてさらに日本の一番古い家の天皇家に求めて、森田にとっての究極の父は天皇となった。これが上田家家長の茂氏の解釈ですね。彷徨う魂です。

花田 森田さんは高校時代生徒会長になり、勉強はできた。大学受験では二浪したんですね。

宮崎 そうです。二浪ですから、私より一歳年上だけど、学年はひとつ下でした。

中村 ちょっと補足しますと、当時、茗荷谷の東京教育大学、今の筑波大があって、森田さんはその教育学部を二浪のときに受けて落ちた。森田は早稲田大の教育学部に入学してから、東教大のバリケード前で記念写真を撮ったことがある。

宮崎 そう、そうでした。これは教科書裁判を起こした東教大教授(当時)の家永三郎に、20名くらいで抗議に出掛けたら、民青を中心にわれわれが千人の学生に囲まれて、「右翼、帰れ!」コールを受けた。学校は授業中断となりました。帰りにその千人の前で写真を撮ったんです。読売新聞が報道しました。
 当時の学生運動の流れを説明しますと、昭和41年の早大は半年もバリケードが築かれ、ストライキをしていて授業のない状態が続いた。
学費値上げ反対闘争だというのが理由だが、本当は左翼のセクト争いだということが分かってきた。
 11月に早大紛争が二度と起こらないよう、共産主義に学内が侵されないよう、日本学生同盟を結成して、その支部として翌昭和42年2月に防衛問題を研究する国防部を創設した。森田さんはこの学生運動組織に一直線に参加してきたんです。
 森田必勝のモットーは、「我ことにおいて悔いず」でした。

森田青年と三島由紀夫の親密度が増していった過程

花田 その後、国防部運動が全国的な横の連絡組織をつくる。森田が議長にある。すると三島さんが、国防部の全国組織の結成式で万歳三唱をしたんですよね。

宮崎 ええ、昭和43年6月15日、これは昭和35年に樺美智子が死んだ日なのですが、全日本学生国防会議の結成式がありました。
 国防部の全国組織を立ち上げることになり、森田がその初代議長に選ばれた。森田が三島さんに挨拶に行くと、自ら祝辞を述べに行こうと言ってくれたんです。
 森田と三島さんの事実上の最初の出会いは、昭和43年3月です。森田の遺稿集にあるように、前年に六本木のアマンドで、早稲田の国防部数名と三島さんと会合があるのですが、このとき森田もいたか、どうかは定かではありません。
 第一回の楯の会の前身となる三島小隊の体験入隊は昭和四十三年三月でした。
三島さんも十数日参加した、自衛隊富士学校滝ヶ原分屯地での一ヶ月間の体験入隊で、参加予定の中大生5人が、中大のスト解除に伴う試験再開で直前に参加できなくなって、森田らが急遽駆り出されたんです。
森田は体験入隊から帰ってくると、私の前で机に座り、滅多にかかない手紙を書く。三島さん宛に「先生のためには、いつでも命を捨てます」と礼状を書いた。
生きていくのに必死だった若者の多くにあって、森田はどうやって死のうかを考えていた。
理解できない飛躍のある思考の持ち主なのか、或いはこうした短絡的思考で走ることの出来るタイプの人か、私には分からなかった。
その手紙を出して数日後に三島さんから「あの手紙には参った」という電話が森田にあった。それから二人は親密化していった。

花田 昭和四十年代前半、日本でもっとも有名人だったのが三島さんでしたね。
この三島美学か、マヌカンかと当時はさんざんマスコミからからかわれた三島由紀夫の行為でしたが、いま我々は後智慧で、オモチャの軍隊ではなく、まさに「革命の哲学としての陽明学」を実践した三島由紀夫の像をみるわけですが、現実に、当時の雰囲気を知っている堤さん、そもそも堤さんは、三島さんから「お前も楯の会に入れ」って誘われたそうですが?

 昭和44年1月の東大闘争の後、三島さんから会いたいと俺に電話があって、文春のオフィスの中にあった日本文化会議の部屋で、「東大を動物園にしろ」の聞き書き役をした。その場で、僕も三島さんから、「楯の会」に誘われた。

北方領土運動での知られざる森田必勝、決死の行動

花田 ここで避けて通れないのは、森田が中心となり、北方領土奪還の国民運動の魁になろうとして貝殻島上陸計画を立てますね? 昭和四十三年八月の事件です。

中村 森田必勝は日学同運動のなかで全国学生国防会議議長として活発に活動していた昭和43年夏、仲間と逗子海岸へメンバーと海水浴に出かけた。そのときに遠泳をしながら、或いは北方領土問題でも国民を覚醒させるべく運動しようということになった。
逗子の沖合の小島まで往復して、ノサップから貝殻島までは、あのくらいだろうと語り合い、「ならば、行くか」となったようです。
貝殻島はソ連が占領している日本領で、そこに日本国旗を立てるか、拿捕されるか、機関銃で射撃されるか、とにかく世を騒がせて、世論を喚起しようということになったのですね。
その年の8月に宮崎さんたちも森田と一緒に根室の納沙布岬へキャラバン隊を組んで出掛け、現場では決行組みとそれを受けて国民運動を展開する組とが、水盃で別れたが、水温が冷たすぎて泳ぐどころではなかった。
それさえも知らずに決行しようとした無謀さはあります。
森田ともう一人の二人で決行しようとしたが、漁船が重く海に押し出せない。そのうち森田の方からやめようと言いだした。
根室の宿に戻ってきた森田の顔はほっとしていた。一緒に決行しようとした相方は、アンビバレントな気持を森田に抱いたといいます。これが森田を次の行動に進ませることになったと解釈できる。

花田 そうなんですか、宮崎さん。現場で見ていて?

宮崎 失敗の評価を、突き詰められても困るが、当時は毎度そんなことをやっていた。ですから私は「また、やればいい」と若干冷めた目で見ていた。
 勝頼が長篠で撤退したように、森田はあの白い歯を見せていた。そのことは事件直後の昭和46年二月号の諸君!(「森田必勝との四年間」)に書きました(編集部注、宮崎正弘著三島由紀夫“以後”(並木書房参照)。
 あの北海道への遠征では、新聞紙を敷いて駅舎に宿り、二泊三日でへとへとに疲れて帰ってきた。深い反省なんかしていられなかった。

中村 森田と貝殻島へ渡ろうとしたもう一人が遠藤秀明さんで、彼はその後ネオナチの研究にドイツへ行った。
 森田が貝殻島へ渡るのをやめようと言って、釈然としない気分だった、と遠藤氏は回想したものの、要するに海水が冷たくて愕然としたのは調査不足だった。

宮崎 ただ地元の漁民に怪しまれて夜中にもマークされていたから、貝殻島へ渡る漁船を盗むなんて出来やしませんでした。

車座になって酒をのみ、三島を論じた

花田 森田必勝氏は坂本竜馬、土方歳三になりたいと日記に残していますね。その両者になれないとの忸怩とした気持から、自己証明に駆られたと思う。

堤堯 貝殻島への上陸に失敗した翌年の昭和44年4月、僕は森田がアルバイトをしていた四谷の創魂出版に会いに出掛けた。
 日当1400円でライトバンへの本の積み下ろしをしていた。そこで森田とはストーブを囲んで、スルメを齧り、日本酒を呑みながら3時間ばかり学生運動について、政治運動について、三島論について話した。
 ノサップの潮は早く、水は冷たかったと言っていた。寡黙だったな。
 僕はそのとき森田さんに「(ナチの突撃隊長でヒトラーに裏切られ粛清された)エルンスト・レームになるかも知れないね?」と訊いたら、森田は「絶対に三島先生を逃しません」と切り返してきた。
 三島さんは取材対象にのめり込んで行く人で、「禁色」を書いていたときは、ゲイバーに出入りしていたし、 取材でジャズ喫茶に通ったり、フーテンを自宅に呼んだりもした。

中村 森田はカルメン・マキの「時には母のない子のように」が愛唱歌だった。

宮崎 私は軍歌を唄う森田しか知らない。二次会、三次会ではそういう歌を唄っていたのかもしれませんが。

中村「今日でお別れ」も持ち歌だった。

 森田さんの河野一郎の追っかけ。 その次の対象が三島だった。 自分は何ものか? アイデンティを探っていた。

花田 そのあたり、実際に毎日のように彼と会っていた宮崎さんとしては、どういう実感がありますか?

宮崎 後智慧でなら、どうにでも言えるけど、率直に言って、当時千人から千五百名の仲間がいたから、一人一人に関して深く構ってはいられなかった。
 私は朝日新聞の配達をやっていた、というと意外と思うだろうが、左から右に回るのは当時の思想状況を思い出して頂ければ普遍的なことです(笑)。
で、森田は毎日新聞の輸送をやっていたので、同じ新聞仲間ということで特別に親しかったのは事実です。
 森田さんは記念写真を撮るときに、スーッと真ん中に来てニッコリするのが得意技だった。理論的なことは嫌いではないが、人前では控えるタイプだった。
 とはいえ森田さんは北方領土運動からかえって、貳週間後におきたソ連のチェコ侵入事件。四日市から電話をかけてきて、「何か行動を起こそう」という。その三日後にソ連大使館に押し掛けて座り込みをしたた時のリーダー格で、チェコも大事だが、23年前から日本領は奪われているとソ連に抗議し、大使館の担当官に抗議文を手渡したのも彼でした。
 ですから貝殻島の一件の後、森田さんは「民族運動の起爆剤を志向」という論文を 日本及日本人に書きます。
それが読売新聞の論壇時評で好意的に採り上げられたことがあります。論客だった側面もお忘れなく。

花田 その半年ほど後から森田さんは「楯の会」の専従になる。

 酒を酌み交わした後、森田さんの「三島先生を逃さない」との発言を三島さんに伝え、「大丈夫?」と訊いたら、 三島さんは胸を突かれたような表情を見せた。そのときに三島さんから、「君みたいな男に楯の会に入ってほしい」と誘われたのです。
「家族はいるか」と訊くから、「女房と子どもがいる」と答えると、「女房、子どもを口実にするようじゃダメだ」と一方的に言われた(笑い)。

宮崎 その半年前に話を戻しますが、楯の会への勧誘はわたし達も受けた。当時、学生運動は、ガリ版切り、立て看作り、ビラ刷り、ビラ配りと忙しい。 そんな我々に三島さんから一ヶ月学生を貸せと言われても、追加でせいぜい5人が限度だった。
 最初の頃の「楯の会」(当時、この名前はなかった。三島小隊と呼んでいた)の人選は論争ジャーナルが中心になってやっていた。 二期目以降は徐々に会員の構成が変化して行った。

 事件後、楯の会の何人かを取材したことがあります。中央公論に入った故平林孝氏(その後、中央公論編集長)もメンバーだったようだが、楯の会に入隊後、「バカバカしいから辞めたい」と言うと、三島さんは「そうだろうな」と言った。

「楯の会」専従までの空白期間

花田 森田氏は、その後、楯の会の学生長となるまでの期間はどうしていたのですか?
そのあたり、中村さん。烈士と呼ばれる男のなかで詳細に書かれましたが?

中村 森田や野田隆史さんら5人は同時に日学同から脱退して、新宿区十二社(じゅうにそう)の小林荘に集結して「祖国防衛隊」を結成した。月一回の「楯の会」の例会には制服を着て出掛けた。
テロで人を殺めたら自裁すべき、と主張して切腹の練習もしていた。ところが、実際の決行に、十二社グループからは誘わずに森田は古賀、小賀、小川の三人を選んだ。
 だから事件後、森田グループにありながら、残された者たちの空白感はたいへんで、事件のことを訊くと、皆悔しさ、口惜しさで泣き、無念そうに語ってくれました。これがのちに経団連事件に繋がった。

花田 逡巡した三島さんを森田さんが引っ張ったというのは?

中村 昭和44年日学同を脱退し、十二社に集結した森田たち5人は「血を以て贖う」というように、急進的になっていった。

花田 三島さんを折伏していった経緯があったのか?

中村 ここまで来て「三島先生がやらないのなら俺が(三島を)やる」という森田の気持は十二社グループの中では公知だった。

 三島さんは森田さんを「僕を殺すただひとりの男」とある人に紹介した。 芝居の稽古中の三島の発言とジョン・ネイスンが書いている。
 しかし三島さんは絶対人を殺せないんだ。 平たく言うと、攻撃的になれない人だ。議論していて突っ込むと、さっと退き下がる人。
 子どもを可愛がる人でもあった。娘の紀子さんが学習院の同級生の浩宮殿下と一緒に写っている写真に、雑誌社が “三島の娘” と入れたキャプションに文句をつけたことがある。すると三島さんは娘の誘拐を心配していたくらいですよ。
 そして自分の死後十年間、子どもたちの誕生祝に花を手配してもいた。
三島は学習院の同級生との回顧談で、戦争を女房こどもを放っぽらかしてやったが、そんなことは本来やっちゃいけないと言っている。
昭和45年の夏、森田さんから四谷のスナックで、「佐藤首相を刺す」というのを聞いた。そんな森田さんに三島さんが引っ張られた側面は否めない。

宮崎 思想的に当時の動きを追うと、左翼の横暴と暴力への反作用として、以前からあった良識派がようやく立った。
思想状況でいえば、林房雄という大きな存在があり、体制改革の高坂正尭さん、伝統保守の平泉澄さんの系列、石原慎太郎氏が立ち上げた、「日本の新しい世代の会」などと、一旦は、反左翼の人達が結集したけれど、場面、場面で論争にあり、場合によって分裂し、学生の取り合いをしていた。 楯の会、石原の集団、平泉の伝統保守思想の集まり、といった風に。

最後の四部作は第三巻以後、痩せている

 昭和45年5月三好行雄氏との対談で、三島さんは「楯の会で死ぬことになるかも知れない」と発言しています。
遺書を書いたのは6月30日、その翌日、防衛研修所で講演し、「柄にも無いことに首を突っ込んでトンデモナイことになる」と言った。
中断した豊饒の海の連載を昭和45年の5月から8月にかけてシャカリキになって書いた。その結末を夏、下田のホテルに呼んだドナル土・キーン氏に見せる。昭和46年末くらいに完成を予定していたが、状況が変わったんだ。

中村 三島のダンディズムで、結末はあらかじめ書かれていたが天人五衰は、文学的に痩せている。
辛かったでしょうね。作家から言えば、あれは短編の終わり方だ。

 僕は天人五衰の結末に感銘した。
「鏡子の家」は評判が悪くてね、と三島はこぼしていた。 田中西二郎さんだけが褒めていた。
「春の雪」は好評、「奔馬」は遠巻き、「暁の寺」は文壇が無視した。

宮崎 そうですね。最後の「天人五衰」には、前三巻に出てくる女中かしらの蓼科とか、渋澤龍彦をモデルにした副主人公らが出てこない。
 ところで英訳ですが、手間取って一巻・二巻はギャラガー氏が英訳し、三巻は阿頼耶識など仏教哲学の極致のような思想書になっているからチンプンカンプンで、ようやくキーン氏が引き受け、四巻は先頃亡くなったサイデンステッカーさんが訳した。

 渋澤邸に集まったときに、三島が皿を使って一心にアーラヤシキの説明をしていたら、渋澤が「それじゃ、番町皿屋敷だ」と茶化して、皆が大笑いした。
 事件決行の二週間前、新宿で御茶ノ水方面行きの中央線に乗り換えたら、目を閉じ、股を広げ、腕を組み、鼻の穴を膨らませ、溜息をついている森田さんがいた。
 周りの者は怖くて近づけない。 60年アンポのときに、あの事件直前に御茶ノ水から本郷行きのバスで見掛けた樺美智子を思い出したよ。
そしたら無性に三島さんに会いたくなったんです。
会う口実をつくろうと三島と大学・学部・年が同じ編集長と相談して、二ページの時評プランでアポ取りの電話をした。
 「会いたい」と三島さんに言うと、「話は何だい、11月いっぱい予定が詰まっている。来年の予定は入れないことにしている。12月に入ったら電話してくれ」と言う。
当時売れっ子だった評論家の坂本二郎との対談でお願いしたいと言うと、僕は公害だからねと応諾し、12月7日のアポ取りに成功した。それは何かを嗅ぎ付けたと思った堤へのアリバイ作りだったのだ。

三島事件は日本の歴史に残る壮挙でもある

花田 最後に三島事件の今日的な意義を、お願いします。

中村 戦後生まれは、命を大事にだが、生命以上の価値があると知ったのはショックだった。複数の人間がある事を行い、代償として腹を切る場合、順序がある。一人目は露払い役だ。イニシアティブは森田さんにあったと考えられる。

 森田はロケットのブースター役だった。
 森田がいなければ起こらなかったのが三島事件。三島が生きていれば82歳。三島に理想の人生を訊くと、ゲーテと答えた。宰相と文人。もしいまも三島さんが生きていたら政治的オピニオンを振り撒いていただろう。岸信介が掲げ、三島・森田の二人が提示したのは「改憲」だが、岸の孫の安倍晋三が「改憲」を政策のトップに掲げた。その登場と挫折を見たら何と言っただろう。

宮崎 ヤマトタケル、大津皇子、楠木正成、大塩平八郎、西郷隆盛、特攻隊に連なる。自分を犠牲にしても行動で示したのが、日本の歴史のパースペクティブから総括する三島事件だったと思います。

花田 いやぁ。意外なお話ばかりでした。時間になりました。本日はどうも有り難うございました。


(西法太郎 記)


 なお、発言者加筆による正式な記録は『WILL』2008年2月号をご参照ください。

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