ローマ憂国忌
 三島の最後の行動がイタリアの知識人にいまも巨大な影響を与えております。「愛の熱狂」を語るフランスや「オペラ」のドイツとは異質の関心、それも本格的関心と言っていいでしょう。なにしろ三島の日本刀をぎらりとさせ「必勝」の鉢巻きがポスターが市内に貼られ、「言葉の責任を取れ」と書かれています。ローマのある新聞には三島由紀夫の辞世まで克明に説明されていました。
 「諸君」に発表いたしました拙文も併せてご紹介いたします。

ローマ憂国忌  沿革から触れておきますと主催はRAIDO(ローマ文化協会)など民間のシンクタンクを兼ねた若者たちの集まりで、後援がローマ日本協会とローマ県です。
 たまたまイタリアは総選挙に突入したばかりで知事からは「我々も三島のメッセイジを重く受け止めよう」とのメッセイジが到着しました。
 とはいえ主催者たちと政党とのコネとか、政治運動とは直接のつながりは全くなく「むしろ政治思想に興味がある」と言う人が多かった。
 ちなみに「ベルルスコーニなんてポピュリストの馬鹿だけど、ま、投票するとしたら他に選択の余地はないな」というような感覚。 
 主宰者がわは「ムッソリーニ派」と言っても良く中にはスキンヘッドの学生もちらほら、しかし聴衆は一般市民、学生(それも若い女性が多いのが日本の憂国忌と全く同じ)、三島ファン、文学研究者など雑多にして多彩です。
 テーマは兼ねてご案内のように「三島由紀夫ーその剣、筆、そして血」(どうやら古代ローマの血が騒ぐのか、行動哲学が最も関心を呼んでいるよう)。

イタリア語の翻訳版  一日目は4月7日、午後4時から。市内のど真ん中にある会場につくと、三島の写真入り垂れ幕、ぎっしり250名以上。熱気に溢れていた。会場ロビィではあらゆる三島作品を売っているところも東京の風景と酷似(もちろんイタリア語の翻訳版)。ただし三島作品で参加者が一番読んだと言ったのは意外なことに「わかき侍たちのために」「葉隠れ入門」「太陽と鐵」「文化防衛論」「奔馬」といった順番。開会式は簡単に済み、一番バッターは「三島の文学と行動」と題してアドルフ・モルガンテ教授。「彼は通俗的天才を越える世界への普遍性をもつ」と発言。つづいて若き大学院生の才媛が「1930年代の日本と三島」(ロレッタ・ロゼリア・バレリ)。ともに日本人より詳しく三島の思想形成のバックグラウンドの説明がなされた。
 特に後者の話には西郷隆盛は分かるにしても橋本欣五郎、頭山満、内田良平など戦前右翼の巨魁たちの行動まで解説されて「これが三島の「憂国」と「英霊の声」の時代背景です」と参加者に説明されたのには驚かされます。その後、芭蕉、一茶、蕪村、虚子、子規などの俳句が朗読され、著名な文学者マリオ・ポリアによって「幽玄」とは何かの解説が行われた。フィナーレは草月流による生け花の実演、三島をイメージした作品が即席でアレンジされた。

プログラム

ネロ・ガッタ教授  二日目は4月8日の日曜日。冒頭に三島研究家でもあり、日本に留学中は墓参りやら実際に15周年の憂国忌にも出席したこともあるネロ・ガッタ教授が文化防衛論に付いて語る。
 続いてイタリアの代表選手らによる空手演舞が「奉納試合」のように行われ三島が愛した日本武道の精神について解説がなされた。それから小生の記念講演。題して「三島と日本回帰」。
 通訳を入れて一時間10分、熱弁を振るいました。その後は質問責め、中には「武士道とは死ぬることと見つけたり」と書いてくれ、入れ墨にするからと言う物騒な注文も。
 「文学界」編集長のような人からは「ユルスナールの三島論はなってないけどどうか?」など。

ローマ憂国忌 会場内
 ともかく報告を急ぎます。小生の後は未だ続き「イタリアにおける三島理解と人気」サンドロ・ジオバーニ、そして「軍神としての三島」を喋ったのは主催者の一人でもあるパウロ・ジァッキーニ。「我々の伝統回帰は古代ローマの精神への回帰だ」として政治哲学としての三島論である。
 最後に「現代人への挑戦」と題してスピーチしたのはマリオ・メルリーオ教授で作家兼詩人でもある。閉会セレモニィは裏千家グループによる立礼茶会が行われ、二日間にわたる三島研究会は幕を閉じた(なお生け花、茶、空手のどれ一つも日本人は一人もいない。全てイタリア人が行ったのである)。
 一言で言えば本質の議論、哲学の議論がイタリアの日本に酷似した主権喪失状況、出生率低下、モラルの低下、価値紊乱、外国人労働者や不法移民などの諸問題から民族のアイデンテティを求める議論が急激に高まってムッソリーニ、ダヌンツィオ(天才作家にしてドイツの大塩平八郎)亡き後のカリスマ不在の時代にむしろ疑似的カリスマとして三島を選んだという側面も強いように感じられた。

ローマ憂国忌
 ただ参加者の多くは文学者としても三島に巨大な関心を持っており「真夏の死」「青の時代」「アポロの杯」などの重要な節目的作品が悉く翻訳されていた。
 「金閣寺」「潮騒」程度の他の国々や能、歌舞伎の米国の関心ぶりとは極端に異質のイタリアにおける三島ブーム、しかも同じ集まりは小規模なものは昨年も行われ、近くトレント、トリエステなどでも50〜70人規模の集まりがあるとの報告もあった。
生け花の写真  「三島のイメージから、いまの日本を描く」。
 草月流の師匠によると「日は昇り、日はまた沈む」イメージになる。
 赤い花が日本を表す。
 ローマ憂国忌の初日のフィナーレで。

バチカン

折から観光シーズンのため、町中は観光客で一杯、ホテルも満室。
バチカンは博物館への入場が2時間待ちというほどの盛況です。
そんな中で三島シンポジウムが開催されたのです。


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諸君 8月号 「イタリアの三島由紀夫」 宮崎正弘
何故、しかもいま?「ローマ憂国忌」


「日独伊・三国同盟」が復活?

 一昔前、米英の外交官から「霞ヶ関ビルのあたりを通るとゾッとする」と言われて首を傾げたことがある。霞ヶ関ビルに隣接の航空会社カウンターがJAL、ルフトハンザ、アリタリアだったからだ。「旧三国同盟を思い出す」とかれらは苦笑をまじえながら言った。ところで冗談半分で聞いていただきたいが、いまも日独伊は新しい三国同盟を形成している。驚くなかれ世界の国別「少子化三傑」とは?イタリア=1・33?日本=1・34?ドイツ=1・37となっているからである。(これじゃ滅びゆくのも三国が同時?)
 今年は「日本におけるイタリア2001」という華麗なイベントがおこなわれ、大規模な美術展覧会をはじめ、オペラなどイタリア芸術の粋が日本全国をねりあるいている。上野の国立西洋美術館では「ルネッサンスー文化と都市展」。ボッティチェルリやダビンチの名画を一目見ようと平日でも長蛇の列が出来ている。上野の森美術館では「ヴェネツィア絵画展」が夥しいファンを集め、先日は森首相も行ったらしいが、会場はぎっしりとして身動きも取れない。それにしても日本人はいつからそんなにイタリア美術に造詣が深くなったのだろう?
 三月十九日には三種類もの美しい記念切手まで郵政省が発売した。80円切手は「ヴィーナス誕生」のデザイン。こうした日本での熱烈なイタリア中毒的熱狂は、95年から96年にかけてイタリアで行われた日本大展覧会(「イタリアにおける日本95/96」)の返礼にあたる文化交流の一環としての記念事業である。  しかし美術展は例外と言って良く、基本的に日本人にとってのイタリアの印象は「遅れた文明国」「何を遣っても駄目な国」。「先進国で一番の赤字大国」。あるいは若い女性たちにとっては「世界最先端のファッション」の発信地という以外、関心が薄い国である。
 アリタリアがイタリアの航空会社ということは知らなくてもサッカーの選手名を知っていたり、グッチ、アルマーニを国籍を意識せずに身に纏うことはあるが。若い女性のイタリア旅行は凄まじいブームだが、ミラノ、フィレンツェあたりでの買い物が主体。せいぜいナポリ、ヴェニスとシチリアまで。ワインを飲み、スパゲッティを食べて、カンツオーネを聴いて。それ以上の奥深いイタリア文化に接しようとする人は稀だ。最近はイタリア料理を修得しようとする留学が、語学研修より多いらしい。若い日本人らしく蓮っ葉なブームの底がしれるところが世の中にはあべこべの事がよく起こるものだ。
 イタリアでは日本文学に以前から注目が集まってはいたが、最近とみに三島由紀夫に集中的なスポットがあたっているというのだ。あとはせいぜい吉本ばなな、山田詠美、村上春樹などが翻訳されてはいるが後者三人の「コスモポリタン現象」は世界的傾向だからイタリアのみに特徴的というわけではない。
 余談ながら純文学で三島の次にイタリアで読まれているのは谷崎潤一郎である。「三島由紀夫の最期」(文春刊)の著者で武蔵野女子大学の松本徹教授は、実際に昨年、イタリアで三島の最後の四部作「豊饒の海」がローマ中の書店にも堆く積まれているのを目撃されてきた。(正確を期すと「春の雪」初訳は82年、「天人五衰」は同85年で、最近改訳が出揃った)。
 やはり友人の大学教授も文部省(当時)の交換プログラムでイタリアに一年間滞在したが「何たって三島由紀夫に関する質問以外、イタリア人からなかった」と仏頂面の感想を漏らした。ちなみに彼は芥川竜之介専攻である。ベネチア大学図書館では三島の全集がそろっている。ついでに私自身の経験。偶然ローマで入った中規模の書店で「三島本ありますか?」と聞くと忽ちにして十一冊、全部お土産に買ってきた。
 はなしが前後するが三島由紀夫が「ギリシア狂い」だったのはローマ帝国時代の「ヘレニズム」を混ぜ合わせての歴史概念で、今日のギリシアとイタリアを別個の感覚で分けて考えるとややこしくなる。同じと見て良いのだ。l952年、アテネでディオニソス劇場をみて「私は無上の幸に酔っている」(「アポロの杯」)とした三島は、その足でローマへ行きバチカンのアンティノウス像を見てまたまた深く感激した。「キリスト教の洗礼を受けなかったギリシアの最後の花」がアンティノウスだと三島は書いた。そして帰国直前にもう一回、バチカンへ見に行き、「さやうなら、アンティノウスよ、我らの姿は精神にむしばまれ、既に年老いて、君の絶美の姿に似るべくもないが、ねがわくはアンティノウスよ、わが作品の形態をして、些かでも君の形態の無上の詩に近づかしめんことを」とまでの絶賛を残した。  そのイタリアで「憂国忌」が開催されるというのである。


「西洋の心理が分かるから?

 イタリア人が三島文学にそれほど強く惹かれるのは、フランスがそうであるように三島の西洋的心理手法と言葉の豊かさにあるのでは? と考えられてきた。
 「昔の日独伊三国同盟の中で、一番駄目といわれたイタリア経済が昨今は日本の天文学的財政赤字を尻目に見事に立て直しに成功。この自信が背景にあるのでは?}と事情に詳しい経済評論家は最近の特徴を指摘する。確かに「優等生」だったドイツは東西統合以来、むしろ財政的な負担が大きくなり、加えて強引ともいえる統一通貨「ユーロ」を主導したことで、国内経済が悪化しスッカラカンの赤字体質になった。この文脈からみると「失われた十年」はドイツが先輩だ。ところが日本経済のもたつきを横目にドイツの経済再建ぶりも急ピッチに進み、2000年にシュレーダー政権は大減税を打ち出し、05年までに最高税率が15%と、香港並に引き下げられる。財政再建も「99年に約600億マルクに達していた連邦政府の財政赤字が、昨年(00年)は450億マルクに縮小」(三菱経済研究所)しているのである。ドイツはイタリアとともに経済危機を脱していたのだ。
 この独伊両国との比較は重要である。かたやヒトラー、こなたムッソリーニへの無理解ぶりは共通している。大多数の国民の反応は単純に「独裁者」「戦争犯罪人」。(もっとも日本にしても東条英機への無理解は独伊に同じ)。
 ドイツは「ヒトラーが悪かったがドイツ国民に罪はない」とする奇妙なロジックで戦後を過ごしてきた。この詭弁(?)のたたりで民族的アイデンテティがなおざりになり、ユダヤ・グループからの訴訟にも賠償で応じ、じっと過ごしてきたため自らの立場も国際的には「アンチ・ゲルマン」の姿勢を容認せざるを得ず、奇妙な形での「ドイツ統一」と国際主義優先の思想に傾く。
 「わが闘争」は言論の自由のドイツでいまでも発禁、図書館で学術参考文献として閲覧する場合でも個室に鍵をかけて読む。ゲルマン民族主義への鼓吹はスキンヘッドやフーリガンが遊び半分で掲げ、後はトルコ人への出稼ぎへの怨嗟からか暴力沙汰がしょっちゅう起こるものの本格的な伝統回帰運動ではない。いわゆる「ドイツ右翼」は外国人労働者がドイツよりも少ないフランスやオーストリアよりも少ないのである。となると三島由紀夫はドイツ教養人の間に、確かに広く読まれているものの「金閣寺」が最高傑作との評価になる。黛敏郎作曲の「金閣寺」と「サド侯爵夫人」が何度となくオペラでも演じられたドイツで戯曲の傑作「わが友ヒトラー」は依然として未訳である。
 対照的にイタリアはパルチザンとの内戦を経て国民的アイデンテティを消滅させ、思想的分裂が長かったのに民族主義は過激で旺盛と言える。もともと歴史を繙いても独立した都市国家の競合的体質がイタリアの特質だった。それを統一したムッソリーニは二十年の長きにわたって政権を維持し、ヒトラーが尊敬したほどの教養人でもあった。彼は自殺ではなく共産主義過激派のパルチザン一派によって敗戦の混乱に紛れて殺害され、愛人とともに遺体を晒された。
 そうした悲劇性からか、いまもムッソリーニへの尊敬の念は高い。(もっとも大半のイタリア人は無理解である)イタリアの戦後政治は中央集権的システムが希薄化し、北部都市と南部の対立、ここへシチリアなど島嶼部の対立が加わり混沌としてきた。政治家は日本と同様に全く尊敬されておらず、国民はてんでバラバラ、協調性を欠いてきた。「精神的頽廃と混迷」がつづき、精神と文化のよりどころを求める国民運動は、なかなか大きなうねりにはならなかった。
 たとえばシシリア島へ行くと人種の坩堝ぶりは米国と変わらないことに気づく。文明の交差点であったためフェニキア、ローマ、アラブ、バイキング、イギリス、フランスの侵略を受け、白髪の北欧系から金髪碧眼のゲルマン系に加えセム、黒人、黒髪のフランス系が共存しているのである。「イタリア人のアイデンテティは?」と問えば、宗教か、さもなくば言葉が優先するのか?
 カソリック総本山はポーランド人が法王となり、イスラム諸国家と融和を求め、ユダヤと和解し、この五月にはロシア正教会(ビザンツ)とも和解する。こうしてイタリアの歴史文化伝統への矜持は日本と似通って「行方不明」の期間がずっと続いてきた。
 「価値紊乱」という意味では日本もイタリアもどっこいどっこいである。ましてイタリアは政局が不安定で日本の首相と同じぐらい頻度激しく政治は混迷し内閣は始終交代してきた(戦後60回の内閣改造)。それに伴う内閣改造は数えきれず、要するに日本とイタリアは、星雲のごとき少数政党の乱立状態だけは奇妙にも似ている。

「先進国最悪」のイタリアではない

 そのイタリアが大変化の最中なのだ。
 このところ保守勢力の巻き返しが続き、五月十三日の総選挙では中道右派が圧倒的に勝利を収めると予想され、ベルルスコーニ(元首相)が返り咲く可能性が非常に高い。嘗て「先進国最悪」といわれた財政赤字は94年にGDP比124・9%だった。それが「ユーロ」加盟のためにまっしぐらに突進努力した結果、98年には118・7%にまで低下させ、日本より(130%)より優等生になった。(数字はイタリア中央銀行)。失業率もピーク時の12%台から劇的に改善を見ており、ずるずると落ちるところまで落ちるといわれた「先進国最弱通貨」のリラもこのところ落ち着いてきた。やはり「先進国最悪」だったインフレも収まりEU平均の3%台。実質成長率もEU平均値を確保、立派に立ち直りと見せているのである。しかもこれらはブローディ、ディーニ、アマートと続いた左翼連立政権のもとで達成されたのだから、究極に追い込まれると人は臥薪嘗胆に動くものなのだ。しかしそういう表面的な経済の動きからだけでイタリアおよびイタリア人を分析するのは大層危険であろう。
 敗戦から半世紀、イタリア人の心情をくすぐるのは世界に冠たるルネッサンス期の芸術とローマ帝国の偉業ではないのか。まさに三島が「アポロの杯」で予言したようにキリスト伝来以前の価値観の復活ではないのか? 敗戦後、日本と同じく「平和憲法」を頂き、戦前のイタリアは「間違った選択をしたのである」と教え込まれ、ムッソリーニへの批判、無理解ぶりを示してきた。GHQの歴史観を押しつけられた日本の「主権喪失」状況に酷似してきた。そのイタリアで日本より一足先に歴史観の正常化が始まったのだ。ローマのいにしえの伝統に回帰する、その典型的な例を日本に探したところ三島由起夫が突如、登場する。これは世界中をさがしても、どの国家にもない珍しい疑似英雄現象である。(三島は書いた。「キリストの洗礼を受けていない最後の花」がアンティノウスだと)
 確かにパリでの三島理解は早かった。フランスは三島由紀夫の諫死をいち早く精神主義的にとらえ、事件直後にパリを訪問した黛敏郎を囲んで竹本忠雄らが呼びかけ、フランスの知識人が大勢集まって「パリ憂国忌」を開催した。アンドレ・マルロウは三島の自決を聴いて執筆中だった回想録を中断、日本にやってきて五十鈴川で禊ぎを受け「このバイブレイショウンはなんだっー」と叫んだ。しかし大半は芸術家としての三島解釈であった。たとえばユルスナールは英語とフランス語訳だけを読んで「三島ー空虚なるビジョン」(河出文庫)を仕上げた。村松剛の「三島由紀夫の世界」によればユルスナールは、三島がアンティノウスの像に魅了されていた事実も知らなかったという。(筆者がローマで出あった文芸評論家で三島論の著作もある文芸誌の編集長は「ユルスナールの三島論は愛の熱狂だけで、民族の栄光とか伝統への矜持とかを全く理解してませんね」と苦笑いしていた)。
 米国とイギリスは異国情緒が基本だから能、歌舞伎にいきがちとなる。英語で書かれた三島伝記はスコット・ストークスのものとジョン・ネイスンの二冊しかないが中身はと言えばやや底が浅い(三冊目の英語伝記は「サーカス」「花盛りの森」の訳者アンドリュー・ランキンが執筆中)。三島が最後に訴えた精神、伝統への回帰などの檄文は彼らの理解のらち外である。ところがイタリアは右に述べた欧米の傾向と趣を異にした。「三島の「行動、文学、決起を通して」その業績を評価するシンポジウム」を開催するとの案内を突然受け取った。どこでどう調べたのか「憂国忌」の責任者である筆者にローマにきて記念講演をしろ、というのである。日本で精神の回復を叫び、非業の最後を遂げた三島が日本文化の独自性と、その伝統の豊かさを賛美した行為は、イタリア人にとって共通の歴史観があるらしい。
 思い出したのは事件直後のイタリアの新聞「イル・テンポ」紙のことだった。1970年12月1日付けで三島の死を日本人よりも正確に歴史的スパンを持ってこう書いた。「あまたの自殺のイメージを通して古代ローマが我々の心に尚生き続けているという真実を思わずにいられない」(中略)「生を愛するが故に、古代ローマ人は自ら生命を断った」。そういえば元老カトウは自決、それも切腹している。会津白虎隊の自刃を顕彰し巨大な碑を戦前のムッソリーニが飯盛山の墓所に贈った。また文学者の蜂起という意味ではダヌンツィオが天才作家としての名声を捨てて行動にでた。ダヌンツィオは、三島が尊敬して止まなかった作家である。   ローマでの「三島シンポジウム」はかなり大規模でローマ文化連合協会が主催し、後援がローマ日本文化協会とローマ県。送られてきたパンフレットにはその集まりのテーマが「三島由紀夫ーその剣、筆、そして血」(おそらくは行動、文学、決行の意味で、ー没後30周年記念ーと副題(疾風のごとく駆け抜けた三島の人生)がついていた。

三島の理解はカリスマ不在の
疑似としての英雄模索からなのか


 講演を頼まれて当惑することがいくつかでてきた。
 第一に日本国内で既に常識化し議論の前提となっている三島に関する知識にしても、イタリアではイロハから咬んで含めるように説明しないと分からないことが多いのではないか、という危惧だった。
 第二に、当然イタリア語の通訳を通すわけだから、まず原稿を先に送って、十分に通訳の準備に入って貰った方がいい。なにしろイタリア語は語彙が豊かな上、女性名詞、男性動詞、その変化形の複雑さは英語が易しく思えるくらい難解。適切な訳語と前もって選んで貰っていた方が双方安心できるだろう。(これは正解でよい通訳に巡り会えた上、彼女は拙稿を前もってイタリア語に翻訳していた)。
 第三に、今度は逆に三島とイタリア文学との比較なぞを質問されても困るので、当方もイタリアに関しての勉強を多少はしておくべきであろう。なにしろ私はイタリアには過去に二回しか行ったことがないのである。  筆者が一番良く知っているイタリア人は故ハーマン・カーンの愛弟子で日本経済の著作も多いガレット・スカレラである。彼の父はムッソリーニに反対して米国へ逃れ、戦後は発砲スチロールを発明して特許料で悠々自適の晩年を送った。(従ってスカレラは正確にはイタリア系アメリカ人)。
 その血を継いだのかいつも陽気、飲むと必ずサンタルチーヤなどの歌がオペラ歌手さながらの声量で飛び出し、踊る。言葉は豊富で次々と話題をふっかけてくる。だからイタリアといえば反射的に彼の事が思い浮かぶのだが、きっとこういう陽気さも例外的イタリア人ではないのか?
 あの「ローマ帝国」、かのシーザーの後継であリ、マキャベリの末裔でもあるからには悠久の歴史を重んじ、重厚な文化をとことん語り、たいそう入り組んだ政治的陰謀も大好きではないのか。いや、そうでなくては、あのローマ帝国はいったい何だったのか、ということになる。

イタリアでどこまで三島が理解されているのか、
調べてみて驚いた。


 翻訳された作品を系列化してみてイタリア的特徴だと認識できたのは?主要作品の全ては当然にしても「仮面の告白」にしろ「金閣寺」「潮騒」にせよ翻訳された時期が非常に早いばかりか、その多くは英訳より早い。?ところが「永すぎた春」「複雑な彼」など三島がアルバイトで書いた通俗小説は見向きもされていない。?「鍵のかかる部屋」は世界でただ一つイタリアだけ(これは三島が大蔵省時代に日本の「主権喪失」状況下の頽廃、デカダンスを書いた傑作でイタリア人の意識では共感を呼ぶからだろう)?最後の行動へ至る思想的軌跡となった「太陽と鐵」「葉隠れ入門」「盾の会のことなど(エッセイ)」がちゃんと翻訳されている?「花盛りの森」「真夏の死」「三熊野詣」といった異色で、しかし精神遍歴をたどるに重要な転換期の作品も訳されている?ギリシア紀行「アポロの杯」も例外的に翻訳されている(他に中国語訳のみで、ギリシアでも翻訳されていない)。これほどの作品群がイタリアで翻訳が出揃った日本人作家はいうまでもなく三島だけである(皮肉にも三島自身はむしろドイツ文学の影響が強く、第二外国語はドイツ語だった)。
 一年ほど前のことだが吉祥寺の居酒屋で偶然向かいの席に陣取ったのがイタリアからの三人娘。小柄で黒髪、日本語を喋った。何かの拍子に酒を勧め、一人が在日イタリア語教師だという。同席した野村進氏が「日本文学で何か読んだ?」と尋ねると三島の「午後の曳航」、「音楽」ときた。
 最後の四部作は読んでないけれど他に「サド公爵夫人」「わが友ヒトラー」も読んだ。「読後感は?」「すばらしい。日本人の心の底が分かる気がした」。あとの二人も「潮騒」は読んだそうな。この椿事からも想像できたのはイタリアでの体系的で本格的な三島研究ぶりだった。
 三島の思想的精神的変化のメルクマールとなった「葉隠れ入門」は95年に、「鍵のかかる部屋」は93年、そして先祖帰りのように「花盛りの森」は91年に翻訳されている。あるドイツ文学専攻の学者に聴くと「ムッソリーニの先輩格でダヌンツィオのフィウメ蜂起を三島が高く評価したことがあり、その文脈からも惹かれるのでは?」という。過激マルクス主義者だったダヌンツィオの蜂起と失敗はやがてムッソリーニの左翼への幻滅を導くことになった。
 ガブリエレ・ダヌンツィオは天才作家として知られ「死の勝利」、「聖セバスチャンの殉教」などを著した。とくに後者を三島が翻訳したのである。原書を池田弘太郎が逐次訳し、そのうえに三島が手を加えた。「仮面の告白」によれば「聖セバスチャンの殉教」をみて勃起し、少年の頃から異常な興味をもっていた、とした。三島は後に少年時代に見た絵のように手を上に縛られ恍惚とした、その同じポウズをして篠山紀信に写真を撮らせるほどの傾倒ぶりを示した。また前者の「死の勝利」は、三島が敗戦の日を挟んで書いた心中物語「岬にての物語」に巨大な影響を与えており、筋の設定から細かな描写まで酷似している。「三島由紀夫書誌」には「昭和3年の生田長江訳の死の勝利」を三島が所有していた事実が分かっている。
 ダヌンツィオは作家としてのみかわ、イタリアにおけるファシズムの先駆者として再評価されており、竹山道雄などは「盾の会の制服がファシスト風であり、市ヶ谷台の演説のスタイルはダヌンツィオの模倣だ」とした(「新潮」71年2月号)。  となるとイタリアでの三島への高い評価のもう一つの動機にダヌンツィオへの近親感からくる三島の最後の行動との重複、そのイメージにおける限りない親しみがあるのではないのか? さてこうした事情が分かってくると気軽に引き受けてしまったことを後悔する筆者だが、今更ことわれはしない。(なぁに当たって砕けろ)とばかり勇躍ローマ往きのアリタリア航空に搭乗したのである。

驚くほどの盛況

 さて「ローマ憂国忌」こと「イタリアにおける三島文学研究シンポジウム」は大盛況を呈した。三島の最後の行動がイタリアの知識人にいまも巨大な影響を与えている明瞭なる事実を手にとって了解出来た。三島が日本刀をぎらりとひからせ「必勝」の鉢巻きを撒いて凄まじい形相をした写真入りポスターがローマ市内のあちこちに貼られ、標語は「言葉の責任を取れ」と書かれていた。(日本には言挙げしたら責任を取るのが武士道の精神だが、いまの日本にこんな事をいっても通じないのに)
 またその日のあるイタリア語の新聞には三島由紀夫の辞世まで克明に説明されていた。昼飯に入ったレストランの親父は三島の著作を持ち出し、「武士道」と揮毫せよ、と私にいう。誰から貰ったのか、日本刀が一振り店内に飾られている。
 ローマ憂国忌の後援者のひとりがローマ県であることは紹介したが、たまたまその日からイタリアは総選挙に突入してい、出席を予定していたシルバノ・モファ県知事から「我々も三島の行動の軌跡を重く受け止めよう」とのメッセイジがあった。ただし主催者たちと政党とのコネとか、政治運動とは直接のつながりは全くなく、若者たちのボランティアである。「むしろ政治思想に興味がある」と言う人が多かった。ちなみに「ベルルスコーニなんてポピュリストの間抜けだけど、ま、投票するとしたら他に選択の余地はないな」というような感覚。さるにても会場をぎっしりと埋めた聴衆は一般市民、学生(それも若い女性が多いのが日本の憂国忌と全く同じ)、三島ファン、文学研究者など雑多にして多彩、ある初老の紳士が近寄ってきたので、立ち話をすると「私は8年間、早稲田大学でイタリア語を教えていましたが、滞在中にあの事件、ふるえが止まらず、それから剣を習いました」(ルイジ・チッチェルキア元教授)。
 やはり文化団体を主宰する責任者「イタリアも歴史教科書、教育でエゴイズムばかりを教え、大儀とか愛国とかは理解しにくい」(ジョルジョ・アントニオ)「私の会社ではトヨダの看板方式を倉庫管理に採用している。そのことを三島との関連で知りたい」(企業経営者)などと参加の動機はどうやら千差万別の様相。
 実行委員会の若い学生たちは男にスキンヘッドがおおいので訳を聞くと「喧嘩しやすい」という答えより「三島のヘアスタイルをまねた」とこれまた分かりやすい。  それにしてもテーマが「三島由紀夫ーその剣、筆、そして血」とある。どうやら古代ローマの血が騒ぐのか、行動哲学が最も関心を呼んでいるようだ。
 主催者のバルダッチ会長によれば「命よりも価値のあるものがあると言う主張は(キリスト教は自殺を禁じているが)民主主義と物質主義の繁栄だけでよいのか、と疑念に思う多くのイタリア知識人の心をとらえた証拠ですよ」と逆に胸を張られた。
 さて第一日目は4月7日、午後4時からローマ市のど真ん中にあるリベッタ・レジダンスで開幕した。会場に入ると三島由紀夫の写真入り垂れ幕、ぎっしり250名以上。熱気に溢れていた。会場ロビィではあらゆる三島作品を売っているところも東京の憂国忌風景と酷似(もちろんイタリア語の翻訳版)。ただし三島作品で参加者が一番読んだと言ったのは意外なことに「若き侍たちのために」「葉隠れ入門」「太陽と鐵」「文化防衛論」「奔馬」といった順番だ。スピーカーの一番バッターは「三島の文学と行動」と題してアドルフ・モルガンテ師範。「彼は通俗的天才を越える世界への普遍性をもつ」と発言。「議論だけの知識人を三島は批判し植民地文化を拒否した行動に意義がある」(イタリアも米国文化の悪影響が甚だしく映画の九割はハリウッドの暴力ものであるところは日本とそっくり)
 つづいて若き才媛が「1930年代の日本と三島」( ロレッタ・ロゼリア・バレリ)。として三島が「憂国」を書くに至った思想形成のバックグラウンドの説明がなされた。イタリア人には西郷隆盛は分かるにしても橋本欣五郎、頭山満、内田良平など戦前右翼の巨魁たちの思想と行動までが入念に解説され「これが三島の「憂国」と「英霊の声」の時代背景です」と参加者に説明していたのには驚かされた。「30年代の日本も理想が破れ腐敗がすすみ農村の貧困のために若い軍人がたちあがった。三島はそのことを深く解析し、現代への挑戦をなした」というのである。ロレッタは日本語を漢字でも書けるが北京語も習っているという。ただし多くの主催者の若者たちと同じく日本にきたことがない。(きっと日本にきたら、この人たちはあまりに現代日本人が三島的生き方とは対極的なので失望するだろう)。
 そのあとは芭蕉、一茶、蕪村、虚子、子規などの俳句が朗読され、マリオ・ポリア教授によって「幽玄」とは何かの解説が行われた。最後に草月流による生け花の実演、三島をイメージした作品が即席でアレンジされたが、その一つは日が昇り、また沈む日本の様を独創的な配列とした作品が人目を引いた。
 二日目は4月8日の日曜日。冒頭に三島研究家でもあり、日本に留学中は多磨霊園への墓参やら15周年の憂国忌には実際に出席したこともあるネロ・ガッタ教授が「文化防衛論について」講演した。 
 彼らの文化防衛とは「キリスト伝来以前の古代ローマに帰ることです」と明快な論理である。ネロ教授は三島文学の意義を古典として陽明学、もしくは昭和ロマン主義文学?国学の伝統の三点が重要であり、軍事政治解釈優先のイタリアにおける三島由紀夫ブームに警告を投げかけた。続いてイタリアの代表選手らによる空手演舞が「奉納試合」のように行われ三島が愛した日本武道の精神について解説がなされる。
 私の記念講演は「三島と日本回帰」というもので昨年出版した「三島由紀夫はいかにして日本回帰したのか」(清流出版)をコンパクトにまとめイタリア風に独特な味付けをしたもの。通訳を入れてたっぷり一時間10分、終わると質問責めにあった。曰く「憲法改正がされてないのにどうして三島の盾の会は可能だったのか?」とする頓珍漢な質問やら、中には「武士道とは死ぬることと見つけたりを日本語で書いてくれ、入れ墨にするから」と言う物騒な注文も。その後さらに「イタリアにおける三島理解と人気」と題してサンドロ・ジオバーニ、そして「軍神としての三島」を喋ったのは主催者の一人でもあるパウロ・ジァッキーニ(シンクタンク主宰者)だった。「我々の伝統回帰は古代ローマの精神への回帰だ」として政治哲学としての三島論を述べるジャッキーニは「國のため現世に生きるより武士の魂を蘇らせる行為に三島は価値をもとめたに相違ない」のであり「サムライの精神はキリスト以前の古代ローマのサムライ精神と酷似するものがあるに違いない」とし、まさに三島は「名誉の人生を完結した」。だからイタリア人も「同じ行動が必要とされるのではないか」と最後の檄文調である。事実ジャッキーニの事務所で雑談したときに彼の自慢の日本刀を見た。筋金入りの武士道哲学模索者である。彼の書棚は西田幾多郎、鈴木大拙、道元などの禅とニーチェ、ハイデガーが三島の著作とともに並んでいた。
 最後に「現代人への挑戦」と題してスピーチをしたのはマリオ・メルリーオ教授で作家兼詩人、前日の才媛ロレッタの主任教授でもある。専攻はニーチェ。「三島の生涯を概観してみると純粋な人だったように思える。言葉では言っても夥しい現実の世の中を前にいて、本当に葉隠れ精神で現代に挑戦出来たのだから、このポイントこそ重要」と長髪を振り乱しての熱弁だった。
 閉会セレモニィは裏千家グループによる立礼茶会で、二日間にわたる三島研究イベントは幕を閉じた(生け花、茶、空手のいずれも日本人は一人もいない。全てイタリア人が行った)。
 ローマ憂国忌は一言結論風に言えば、まさに本質の文化議論、人生論を含めた哲学の議論がなされた。それも現代イタリアの直面する様々な同時代の諸問題をかかえている。まさしく主権喪失状況、出生率低下、モラルの低下、価値紊乱、外国人労働者や不法移民などの諸問題から民族のアイデンテティを求める議論が急激に高まった背景があり、それゆえに疑似的カリスマとして三島を選んだ側面も強いのではないか、と感じられた。
 「金閣寺」「潮騒」程度の理解しかない他の国々や、ひたすら能、歌舞伎だけといった米国の関心ぶりとは極端に異質なイタリアにおける三島ブーム。しかも同趣旨の集まりは、小規模なものは昨年も行われ、近くトレント、トリエステなどでも50ー70人規模の集まりがあるとの報告もあった。総合雑誌、文芸誌の取材もめだった。

戦後状況が日本と酷似

 イタリアは日本と同じように「戦争放棄」を謳う憲法を持っている。このため「普通の国家」としての行動をとれない点まで実は日本とそっくりなのだ。政治が力を失い、形骸化し法律家のような議論が好きだが、人を震えさせるほどの政治の言葉がないという実態も多くの知識人の苛立ちに繋がっている。
 たとえばブッシュ政権が就任早々にイギリスと一緒になってイラクをいきなり空爆したとき、「早急に空爆を停止し、政治的な解決を望む」とイタリア外務省が表明した。
 ダレーマ首相は「空爆がイラク危機の解決につながる可能性は低い」と軍事行動に批判的だった。むろんこれらは表向きの建前を述べているにすぎないのだが、一応は憲法の戦争放棄の原則に忠実たらんとするイタリア政府の面妖な姿勢が分かる。嗚呼、その法律論議に振り回される面妖さは日本政治と重なるではないか。TMD、集団的自衛権論議の日本と。
 イタリア憲法第十一条は「自由に対する攻撃の手段としての戦争及び国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する。国家間の平和と正義を保障する体制に必要ならば、他の国々と同等の条件の下で、主権の制限に同意する。この目的を持つ国際組織を促進し支援する」とある。ただしPKO,PKF論議はイタリアでは起きないのも徴兵制度があるからだ。憲法第五十二条に「祖国の防衛は市民の神聖な義務」と規定されており、さすがローマ帝国の末裔、日本より明確かつ現実的だ。
 彼らが三島のサムライ的側面にあれほど強く惹かれる背景は、おそらくこの体制的基盤であろう。
 もう一つの例を引こう。
 1999年6月のNATOによるユーゴスラビア空爆ではイタリアが最大の出撃基地になった。イタリア政府は「これは戦争ではない」と定義して、危機を切り抜けようと諮ったが、議会は「空爆には国際法の根拠がない」と批判が募った。そこで中道左派政権は実際の戦闘には加わらない立場を鮮明にする。共産主義者党も批判的だったが連立政権にはとどまった。「もし連立から離脱すれば政権のバランスが右に傾く。政権内で和平への道を探るしかなった」と言い訳を繰り返した。国内に米空軍基地および五つの軍民共用空港があるため、それら施設の出撃基地化を認めたのである。
 日本は日米安保条約で「事前協議」が一応は謳われている。しかし海南島沖での米中軍機衝突事故が図らずも示唆した政治的矛盾は、あのEP3機は沖縄嘉手納基地を飛び立ったという事実である。日米安保条約でいう「事前協議の対象」であったのに日本ではイタリアのごとき騒擾はなかった。
 この国には既に独立国家がどうあるべきかという基本の姿勢さえも問題にならない。だから三島の提議した問題がイタリアで噴火しても、三島自身がただそうとした祖国・日本では一等重要な大本が忘却され、憲法改正は遅々として進まず、経済改革は暗礁に乗り上げ、株価対策などといった矮小で戦術的な経済政策のレベルで議論がまだ続いている。
 ローマ憂国忌の提議した問題は、むしろ日本人自身が深く受け止めるべき事柄ではないのか、と帰国便の機内でしきりに思うのだった。


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